正教会 Orthodox Church - Japanese Flowers of Orthodoxy 1






正教会 Orthodox Church


Japanese Flowers of Orthodoxy 1


ORTHODOX CHRISTIANITY – MULTILINGUAL ORTHODOXY – EASTERN ORTHODOX CHURCH – ΟΡΘΟΔΟΞΙΑ – ​SIMBAHANG ORTODOKSO NG SILANGAN – 东正教在中国 – ORTODOXIA – 日本正教会 – ORTODOSSIA – อีสเทิร์นออร์ทอดอกซ์ – ORTHODOXIE – 동방 정교회 – PRAWOSŁAWIE – ORTHODOXE KERK -​​ නැගෙනහිර ඕර්තඩොක්ස් සභාව​ – ​СРЦЕ ПРАВОСЛАВНО – BISERICA ORTODOXĂ –​ ​GEREJA ORTODOKS – ORTODOKSI – ПРАВОСЛАВИЕ – ORTODOKSE KIRKE – CHÍNH THỐNG GIÁO ĐÔNG PHƯƠNG​ – ​EAGLAIS CHEARTCHREIDMHEACH​ – ​ ՈՒՂՂԱՓԱՌ ԵԿԵՂԵՑԻՆ​​ / Abel-Tasos Gkiouzelis - https://gkiouzelisabeltasos.blogspot.com - Email: gkiouz.abel@gmail.com - Feel free to email me...!

♫•(¯`v´¯) ¸.•*¨*
◦.(¯`:☼:´¯)
..✿.(.^.)•.¸¸.•`•.¸¸✿
✩¸ ¸.•¨ ​



ようこそ! 

Welcome!


<>





旧手賀教会堂 Old Tega Church 

[Tegakyoukaido, the 1st Orthodox Christian church in the Tokyo region by St. Nicholas Kasatkin of Japan (+1912)]

明治6年、信教の自由が交付されるとともに、ニコライ大司教により日本ハリストス正教会の布教活動が北海道函館より始まりました。 千葉県には明治8年法典(船橋市)、同10年大森・船穂(印西市)、布佐(我孫子市)にそれぞれ教会が設置されました。

大森教会での布教を知った手賀、布瀬地区の人々は、明治12年に教会を創立し活動をはじめ、同16年に教会堂を設置しました。 これが現在の旧手賀教会堂で、明治30年頃聖堂部分が増築されています。旧手賀教会堂は、首都圏近郊では現存する最古の教会堂となっています。


<>






​「苦しくたって悲しくたって」



 みなさんはバレーボールをやったことはありますか?部活動でやっていた人もいるかもしれないし、それでなくても体育の授業などで、ほとんどの人がバレーボールに触れたことがあるのではないかと思います。



 バレーボールはご存じのように、まずはサーブを相手コートに打ち込み、そのサーブをレシーブしたチームが、今度はトスを上げて再び相手コートにボールを打ち返します。この繰り返しでプレーは進みます。



 さて、とにかくスポーツというスポーツ全般が苦手だった私が体育教師に指導されたのは、「レシーブをするときに腰が高すぎる。いつも重心を低く、膝を柔らかくしてどんなボールでも反応できるようにしておかないと、急にレシーブしようとしてもうまく対応できないぞ」ということでした。そう、コートで棒立ちで待っている私は、ボールが飛んでくるのが見えてから慌てて動いて、間に合わずにボールを落としてしまうか、ボールに触れたとしてもうまく捌けず明後日の方向に飛ばしてしまうばかりだったのです。うまくレシーブするためには低い重心で素早く、ボールの落ちるところに入り込んで、着実にサーブやスパイクを処理していかなければなりません。



 これは実は私たちの信仰生活でも同じことが言えます。ギリシャ語で「謙遜」はタピノスと言い、これは「低くする」という意味を持ちます。また「忍耐」はイポモニと言い、これは「待つ」という意味を持っています。謙遜も忍耐もキリスト者にとってとても重要な心ですが、言い換えれば「重心を低くし、待つ」ということが求められているということです。バレーボールで相手のサーブやスパイクに備えるのと同じです。



 神はしばしば私たちの人生にサーブを打ち込んできます。目の前に困っている人がいる状況で「どうする?」と問われること、あるいは洗礼を受けようかどうしようか、というような大きな問いもあるでしょう。神の求めや、問いかけは私たちの日常生活の中に、まるでサーブのように飛び込んできます。その時に自分を高く見積もる傲慢な心では、神からのサーブを次々と見逃すか、見当違いの方向にボールを弾き飛ばしてしまうだけです。そうではなく、自分の小ささを知り、いつでも神の言葉を聞き逃すまいとする謙遜で忍耐のある心、すなわち「膝を柔らかく重心を低くして待つ」心だからこそ、上手に神の問いかけに反応することができるのです。



 さて、人間の中で誰よりも上手に神からのボールをレシーブした人とは誰でしょうか。それは生神女マリヤでしょう。「神の子の母となってください」という神からのとんでもない問いかけは、まさに強烈な神のサーブです。それに「そのようになりますように」と生神女が応えられたのは、生神女が誰よりも謙虚で、いつでも神の問いかけに応えられるよう備えていたからです。



生神女が名レシーバーだったことに私たちも倣いたいものですね。



ソース:






盛岡ハリストス正教会



Morioka Orthodox Church

<>







今日は聖アンフィアンと聖エデシィの記憶日です



今日は聖アンフィアンと聖エデシィの記憶日です。

彼らは兄弟で、異教徒の官僚の子供として生まれましたが、異教の勉強をする為に行ったベイルートでキリスト教を知り、熱心な信者になりました。

マクシミヌス帝による迫害によって苦しんだものの、最後まで信仰を捨てず、海に沈められて致命しました。




<>







主憐れめよ

Lord mercy



<>



聖書は永遠の命への明確な道を紹介しています
The Bible introduces a clear path to eternal life

聖書は永遠の命への明確な道を紹介しています。まず、私たちが神に対して罪を犯したことを認めなければなりません。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ人への手紙3章23節)。私たちはみな、神に喜ばれないことをしてきたので、罰を受けて当然な立場にあります。私たちのすべての罪は、最終的に永遠の神に反することなので、永遠の刑罰を受けるに値するのです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト·イエスにある永遠のいのちです」(ローマ人への手紙6章23節)。



<>



新年のトロパリ

New Year's Tropar



万物の造成者よ、爾の恩沢を以って、年に冠らせ、生神女の祈祷に因りて我が国を平安に守りて我らを救い給え。



+新年のトロパリ







<>





伝道会のお知らせ

Evangelism Notice

 盛岡正教会では一人でも多くの人に、「正教会」について知ってもらうために「伝道会」を行うことにしました。正教会は私たちが普段よく目にする「キリスト教」とはだいぶ異なります。日本においてイメージされるキリスト教は、西方キリスト教すなわち「カトリック」や「プロテスタント」の教会であることが一般的でしょう。残念ながら日本では正教会の数は決して多くなく、したがって正教会について知る機会というのは大変限られたものになってしまいます。

 しかし地中海世界の東方で発展した正教会は、地理的にも歴史的にも使徒以来の伝統を強く受け継いでおり、西ヨーロッパで発展した西方教会とは異なる思考、神学、伝統を持っています。(※もちろん、共通するものも多くあります)

​ もし、「キリスト教について学んでみたいけれど、話を聞いてもしっくりこない」「聖書に書いてあることの意味が分からない」「ギリシャやロシアが好き」など、どんなきっかけでも、関心があればどうぞ伝道会にご参加ください。もしかしたら、全く新しい知見、キリスト教観、体験に出会うことができるかもしれませんよ。

伝道会の予定:


​新しい試みなので、日時等は今後変更になる可能性が十分考えられます。ご注意ください。

第2シーズン(1-4月)

​「マルコによる福音書を読む

正教会では大斎の期間に読まれることの多い「マルコ福音書」

​正教会の伝統ではどのように福音書を読み、そして理解するのかを学びます。

第7回

​3月25日(木)17:30

​第8回

4月8日(木)17:30

ソース:


盛岡ハリストス正教会

Morioka Orthodox Church

<>



「今日嬰児は枝を執り、爾を勝利者と讃美して、爾に呼べり、ダヴィドの子にオサンナ」

 パスハの一週間前の日曜日、教会は「聖枝祭」を祝います。これはイイススがエルサレムに入城したとき、民衆が枝を手に取り、口々にイイススを讃美し出迎えたことを記憶しています。

 イイススは民衆にメシア、ハリストス、ダヴィデの子、すなわち「王」として迎え入れられました。異国での戦争を勝利で終え、数々の戦利品や捕虜たちを連れて本国に帰ってくる王や将軍は、凱旋式で民衆からの熱烈な賞賛と歓迎を受けます。イイススもまたイスラエルを復興させてくれる新しい王として彼らに褒めたたえられました。枝を手に取り、衣を道に敷き、もろ手を挙げて「オサンナ!(救い給え)」と叫ぶ姿は、凱旋将軍を迎える人々の姿そのものです。イイススの「人生」において最も華々しい瞬間であったとも言えるでしょう。

 しかし民衆の期待と、イイススが「王」である意味、イイススの「勝利」の意味には大きなギャップがありました。イイススは民衆がイメージするような「支配者であるローマ帝国を倒し」「イスラエル王国の新しい王として即位する」というものではありません。イイススの「戦い」の奥深い意義は、彼らユダヤの民衆には理解されていませんでした。それどころか使徒たちにも理解されていませんでした。もしかすると誰にも理解されていなかったかもしれません。

 イイススの入城の姿には実はそのギャップがすでに示されています。イイススが乗ったのはロバの仔でした。ロバは馬の仲間ですが、馬よりも小さく鈍重で、戦に使うことはできません。むしろ普段の平和な生活の中でこそ役に立つ家畜です。凱旋将軍であれば普通は馬にまたがるか、馬の引く戦車に乗って入城してくるはずです。しかしイイススは違いました。平和そのもののような呑気なロバに乗って入ってきたのです。また大斎が始まる最初の週に読まれる旧約聖書、イサイヤの預言書ではメシアの支配について、「剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国にむかって剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない(2:4)」とあります。イイススの戦いは決して異邦人を武力で征服する戦いではありません。

 そのギャップに気付き失望した民衆たちがどうしたか、ということは聖枝祭に続く一週間「受難週」で語られます。彼らは枝を鞭に持ち替え、讃美に代えて罵倒の声でイイススを非難しました。そしてローマ帝国のユダヤ総督であったピラトを強引に押し切ってイイススを十字架刑へと追い込んでいきます。ほんの数日前、人々から「王」として迎えられた人物が、あっという間に大ペテン師、凶悪な反逆者として殺されるのです。急転直下の出来事です。​

 しかし私たちは知っています。この転落は本当の転落ではないこと。イイススがやはり敵に打ち勝つ凱旋の王であることを知っています。イイススの敵はローマ皇帝などではありません。人間を縛り死と罪に繋ぎ止める「この世の君」すなわち悪魔です。イイススが君臨するのはパレスチナの小さな王国ではありません。全世界です。イイススがもたらすのはイスラエル民族の異邦人からの解放ではありません。全ての人間を死から解放するのです。ユダヤ人たちも、使徒たちも、イイススの親しい家族たちも、誰も理解していなかったこれらのことを私たちは今知っています。だから私たちは聖枝祭において枝を手に取り「オサンナ!」と声を上げるのです。

 私たちが聖枝祭で枝を取るのは二千年前のユダヤの民衆の単なる真似事ではなく、私たちが真にイイススを本当の勝利者、本当の王として知っているからです。これから一週間の間に記憶される、主の受難と死、そして復活がイイススの本当の戦いであり、その勝利が必ずもたらされることを知っているから、イイススが死から凱旋してくることを知っているから私たちは枝を取りこの祭を祝います。

 この枝の祭を共に大いに祝いましょう。そしてそのあとにやってくるさらに大きな勝利の祝祭を共に祝い喜びたいものです。

ソース:


盛岡ハリストス正教会

Morioka Orthodox Church

<>



​「苦しくたって悲しくたって」

 みなさんはバレーボールをやったことはありますか?部活動でやっていた人もいるかもしれないし、それでなくても体育の授業などで、ほとんどの人がバレーボールに触れたことがあるのではないかと思います。

 バレーボールはご存じのように、まずはサーブを相手コートに打ち込み、そのサーブをレシーブしたチームが、今度はトスを上げて再び相手コートにボールを打ち返します。この繰り返しでプレーは進みます。

 さて、とにかくスポーツというスポーツ全般が苦手だった私が体育教師に指導されたのは、「レシーブをするときに腰が高すぎる。いつも重心を低く、膝を柔らかくしてどんなボールでも反応できるようにしておかないと、急にレシーブしようとしてもうまく対応できないぞ」ということでした。そう、コートで棒立ちで待っている私は、ボールが飛んでくるのが見えてから慌てて動いて、間に合わずにボールを落としてしまうか、ボールに触れたとしてもうまく捌けず明後日の方向に飛ばしてしまうばかりだったのです。うまくレシーブするためには低い重心で素早く、ボールの落ちるところに入り込んで、着実にサーブやスパイクを処理していかなければなりません。

 これは実は私たちの信仰生活でも同じことが言えます。ギリシャ語で「謙遜」はタピノスと言い、これは「低くする」という意味を持ちます。また「忍耐」はイポモニと言い、これは「待つ」という意味を持っています。謙遜も忍耐もキリスト者にとってとても重要な心ですが、言い換えれば「重心を低くし、待つ」ということが求められているということです。バレーボールで相手のサーブやスパイクに備えるのと同じです。

 神はしばしば私たちの人生にサーブを打ち込んできます。目の前に困っている人がいる状況で「どうする?」と問われること、あるいは洗礼を受けようかどうしようか、というような大きな問いもあるでしょう。神の求めや、問いかけは私たちの日常生活の中に、まるでサーブのように飛び込んできます。その時に自分を高く見積もる傲慢な心では、神からのサーブを次々と見逃すか、見当違いの方向にボールを弾き飛ばしてしまうだけです。そうではなく、自分の小ささを知り、いつでも神の言葉を聞き逃すまいとする謙遜で忍耐のある心、すなわち「膝を柔らかく重心を低くして待つ」心だからこそ、上手に神の問いかけに反応することができるのです。

 さて、人間の中で誰よりも上手に神からのボールをレシーブした人とは誰でしょうか。それは生神女マリヤでしょう。「神の子の母となってください」という神からのとんでもない問いかけは、まさに強烈な神のサーブです。それに「そのようになりますように」と生神女が応えられたのは、生神女が誰よりも謙虚で、いつでも神の問いかけに応えられるよう備えていたからです。

生神女が名レシーバーだったことに私たちも倣いたいものですね。

ソース:


盛岡ハリストス正教会

Morioka Orthodox Church

<>









今日は聖アンフィアンと聖エデシィの記憶日です


今日は聖アンフィアンと聖エデシィの記憶日です。
彼らは兄弟で、異教徒の官僚の子供として生まれましたが、異教の勉強をする為に行ったベイルートでキリスト教を知り、熱心な信者になりました。
マクシミヌス帝による迫害によって苦しんだものの、最後まで信仰を捨てず、海に沈められて致命しました。




<>






愛を基盤としない社会は続けない

A society that is not based on love will not continue

<>




無駄話は火のようなものだ



<>

今日は税吏とファリセイ主日

The Sunday of the Tax Collector and Pharisee (John 1:43-52)

今日は税吏とファリセイ主日。
キリスト教的な「謙遜」とは何かを学べる1日でした。



<>



ハリストス復活!実に復活!

Christ is Risen! Indeed, He is Risen!

<>



日本ハリストス正教会教団 

東日本主教々区宗務局


Orthodox Sendai, Japan

<<>> w

 



正教の霊的勧告

Orthodox Spiritual counsel

愛のあるその所にのみ忍耐はあり… 愛を身に纏いたる人に在りて一つの難事なし、 愛は困難を知らず。

金口イオアン

ソース:


名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<> 



私たちは天上にいるのか、地上にいるのかわかりませんでした

聖体礼儀 Divine Liturgy

「コンスタンティノープルのハギヤ·ソフィヤ大聖堂での奉神礼では、私たちは天上にいるのか、地上にいるのかわかりませんでした。あんな驚異と美とは地上の他の場所では決して見いだせません。言葉では言い表せませんが、これだけは言えると思います。『そこでは、神が人々の間におられました…』」

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/正教会の礼拝.html#sokode

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<> w



聖書 Holy Bible

https://www.bible.com/languages/jpn

Online Bible

The Holy Bible in Japanese

<<>> 



日本に於けるロシア正教会

Russian Orthodox Church in Japan

その歴史が19世紀の半ばからスタートした。その時、 北海道島函館市でロシア領事館が開かれ、最初のロシア正教教会が建てられた。1861年にはそこに24歳の修道司祭のニコライ(カサトキン)が到着した。今、ロシア正教は「亜使徒聖ニコライ」 という称号を彼に与えた。

<> w



東京大主教々区

日本正教会を探す。 日本の古代キリスト教の信仰を発見。

http://orthodoxjapan.jp/area-tokyo.html

Find an Orthodox Church in Japan

Discover Ancient Christian Faith in Japan

<<>> w







東方正教会の歴史

http://www.orthodoxjapan.jp/history.html

History of the Eastern Orthodox Church

<> w



日本: 名古屋正教会の沿革と神現聖堂の紹介

Japan: The Orthodox Community in Nagoya and the Church of Holy Theophany

名古屋市昭和区にある正教会(Orthodox Church)に属する教会です。正教会はもっとも 伝統的なキリスト教教会で、古代教会の姿を現在に伝えています。日本には幕末ロシアの宣教師ニコライによって伝えられました。名古屋でも明治初期には活動が始まり、移転を繰り返しながら、2010年1月現在地(昭和区山脇町)に中世ロシア風の聖堂が建設されました。土日を中心とした礼拝(奉神礼)をはじめ、降誕祭や復活祭などの祭日をお祝いしています。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<> 



キリスト教の土台

The foundation of Christianity

イイスス·ハリストス(イエス·キリストの日本正教会訳)の十字架刑による死と三日目の復活という出来事を「神による人間の救い」として直接体験し、その証人として世界中に伝えたお弟子たちのことを、特別に「使徒」と呼びます。正教会はこの使徒たちの信仰と彼らから始まった教会のありかたを、唯一正しく受け継いできたと自負します。

正教会は中世西ヨーロッパの頭でっかちなスコラ神学や近代の宗教改革も経験しませんでした。東西教会が一つにまとまっていた時代に、五世紀間にわたって合計七回開催された全教会の代表者たちによる会議(「全地公会」)で確認された教えや大切な教会規則、さらに使徒たちの時代にまでさかのぼることのできる様々な教会の伝統を、切れ目なく忠実に守り続けています。それは、キリスト教が問題に直面したときいつも立ち帰るべき「土台」と言ってもよいものです。

神学的には、人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙するという古代教会の指導者(師父)たちの精神性を受け継ぎ、後にローマ·カトリック教会が付け加えた「煉獄」·「マリヤの無原罪懐胎」·「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教理」は一切しりぞけます。またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように「聖書のみが信仰の源泉」だとも「救われる者も滅びる者もあらかじめ神は予定している」とも決して言いません。現代ではかたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を、「付け加えることも」「差し引くこともなく」守っているのです。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://agoya-orthodox.com/ja/正教会とは.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<> w



教会のあり方

教会組織も、ローマ·カトリック教会のようにローマ教皇をリーダーとして全世界の教会がきちんとまとめ上げられた一枚岩のものではなく、各地の独立した教会がゆるやかに手を結びあっているにすぎません。しかし強力なリーダーシップがないからと言って、意見の違いや聖書解釈の違いで幾つもの教派に分裂してきたプロテスタント諸教会とは異なり、正教信仰と使徒からの教会の姿をすすんで分かち合うことによって「正教会」としての一致を保ち続けてきました。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://agoya-orthodox.com/ja/正教会とは.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<<>> w



日本の正教会

Orthodox Church in Japan

正教会の信仰は、天皇の分野で日本の聖ニコラス(修道院のニコライにおけるイワンDmitrievicカサトキン1836年から1912年)を通過した。1861年、彼は北海道日本の島にHakadateのロシア領事館の司祭として来た。日本は軍事知事、将軍によって支配その時だった。彼らは、16世紀ポルトガルのイエズス会による最初のキリスト教の宣教師の成功の後、持っていた 世紀、キリスト教の信仰1614-1873の職業は禁止。それ以来、すべての日本のキリスト教徒は、過酷な迫害と弾圧にさらされた。それにもかかわらず、日本の長期Kakureのキリシタン(=秘密キリスト教徒)によって参照された地下で観測キリスト教のコミュニティを、散乱。このような状況にもかかわらず、日本人はHakadateに礼拝堂正教会サービスに参加しました。1864年、日本初の正統派の洗礼を受けた。離れて彼の家にいくつかの簡単なの訪問から、日本で1904年から1905年に日露戦争時にもそう、彼の人生のセントニコラスだった。これは、全国の1861から正統派の信仰を広め、日本正教会も献堂最初の司教だった。1863年にHkadateの司教は、首都東京に移動しました。そこに、復活大聖堂は1891年に献堂された、1884年に建てられました。セントニコラスは、彼の群れの、常に継続的な宣教師の熱意を成長させる特別な例示的な方法の羊飼いに充填した。1886年に1万人以上の正統派キリスト教徒のために日本にいた。でも、彼の非キリスト教の仲間の市民に、彼は高い評価を楽しんだ。このように、いわゆる「ニコラスの家」を意味広く正教会ニコライ-DO。セントニコラスは、言語のために良い感触を持っていたし、非常に高度なレベルで日本語を勉強。そこで彼は、Triodion、Pentekostarion、季節の礼拝、詩篇と日本への教会の賛美歌の本を空腹時、新約聖書を翻訳し、正統派の信仰の彼の忠実な深いrootednessの基礎を作成しました。1970聖ニコラス聖人の多数はカウントを埋葬し、「対等の使徒」の称号を持つ昇る太陽の国で彼の布教活動のために授与されました。

日本での自治正教会は3教区に分かれています。東京大司教区は、東京の第一教主、メトロポリタンダニエル(Nushiro)によって、日本全体で向かっている。彼は仙台東日本教区と京都で西日本の教区の司教によって補助される。それは、正統派の神学校や東京の小さな修道院をexestiert。聖ニコラス立っの伝統では、日本の正教会、新約聖書と詩篇、および多くの本は典礼使用するためのもので、正統派の信仰に忠実を指示する。セミナーでは、正教会の新聞「聖教時報」と正統派の本の大部分は公開され、印刷されます。今日、日本正教会は、すべて日本のキリスト教徒の約3%である約30,000の信者を持っています。北の島、北海道で最もであるそのうちの約150正教会の教会を管理する30司祭と助祭5。

<> w



日本への伝道

Evangelism to Japan

正教は日本に1861年(文久元年)、ロシアの修道士ニコライによって伝道されました。最初の教会が函館、のちに東京、神田に拠点を移し、東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立しました。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<> w



名古屋への伝道

Mission in Nagoya, Japan

1874年(明治7年)、桶屋町(今の伏見あたり)で「生神女福音教会」として集会を始めました。明治30年頃富士塚町に土地を購入して移転します。日露戦争時には名古屋の各所にたくさんのロシア人捕虜が収容されましたが、日本家屋の小さな教会が捕虜たちの心のよりどころとなりました。大正12年に同地に総2階の聖堂を建設しましたが、第2次世界大戦で焼失し、1949年昭和区山花町に移転しました。1972年に規模を拡大して同地に再建され、やがてそこも手狭となり2006年、市内昭和区山脇町の現在地に移転新築を決定し、2010年1月11日、成聖式を挙行し、新しい地での活動を開始しましたました。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<> w



建物の特徴

Church Architecture

日本では、半円のドームが重なる一九世紀のロシア·ビザンティン様式のニコライ堂、聖職者でもあった建築家河村伊蔵のデザインによる豊橋ハリストス正教会(木造)、函館ハリストス正教会(石造)が正教会建築として有名です。今回名古屋では、正面三連、側面四連のヴォールト屋根にタマネギ型のクーポールを載せた中世ロシアの聖堂建築様式を取り入れました。鉄筋コンクリート造ですが、内部は木の板をたんねんに貼り合わせ、ビザンティン様式の輪型のシャンデリアとともに柔らかい雰囲気をかもし出しています。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<> w



神現聖堂の名称

Theophany

正教会の聖堂はイイスス·ハリストス(イエス·キリスト)や生神女マリアの祭日や聖人の名前をいただきますが、「神現」とは、ヨルダン川で洗礼を受けた神の子イイススに、天が開け聖神(聖霊)がくだり、神、父が「これはわたしの愛する子」と告げ、世の救いのために至聖三者(三位一体)の神がご自身を啓示したできごとに由来します。(聖書マタイ伝三章など)

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH



<<>> w

聖ニコライの来日と正教伝道

Saint Nikolai’s (+1912) visit to Japan and Orthodox missionary work

日本に正教を伝えたのは1861年(文久元年)、函館のロシア領事館付司祭として来日した聖ニコライ(イオアン·デミトリヴィチ·カサートキン)に始まります。初代の信徒は東北出身者が多く、そのために東北の地には正教会が数多く点在しています。聖ニコライは函館から東京に移り伝道の拠点としました。日本人聖職者の選立、神学教育機関の設置、出版事業などを興し活発な宣教活動により教会は全国に拡大していきました。

ソース:

https://www.orthodox-sendai.com

https://www.orthodox-sendai.com/history

ORTHODOX SENDAI

日本ハリストス正教会教団

東日本主教々区宗務局

<> w



ニコライ堂(東京復活大聖堂教会)の公式サイト。ニコライ堂は正教会の教会です。

http://nikolaido.jp

Official web-site of Holy Resurrection Cathedral in Tokyo (Nikolai-do), JAPAN

Japanese Edition

<> w



日本ハリストス正教会

https://www.facebook.com/Japanese-Orthodox-Church-日本ハリストス正教会-257142291000032/

Japanese Orthodox Church

<> w



豊橋ハリストス正教会·聖使徒福音記者マトフェイ聖堂

St. Matthew the Evangelist Orthodox Church in Toyohashi, Japan

問い合わせ
〒440-0806 愛知県豊橋市八町通り3丁目15、 Tel.0532-54-0434
Haccho-dori 3-15, Toyohashi, Aichi
1875年開教。現聖堂は1913年建立。設計河村伊蔵、国指定重要文化財。

アクセス、豊橋市電、市役所前下車。徒歩3分。
管轄司祭 イサイヤ 酒井以明
電子メール spnova@mx3.tees.ne.jp

* * *

http://orthodox-jp.com

http://orthodox-jp.com/westjapan/churchlist.htm

西日本主教区各地の教会

<> w



正教会 Orthodox Church

正教会(Orthodox Church)は語源をたどると「オルソ(正しい)」「ドクサ(教え·讃美)」の意味である。「正しい教え」としては神·救世主·この世·人間の何なるかに答え、「正しい讃美」としては聖なる祈りの形を保持する教会である。
「東方教会」「ギリシャ正教」とも呼ばれる正教会は、ローマ·カトリック教会やプロテスタント諸教会とは異なる伝統の中で、初代教会からの聖伝を確かに受け継いで今日に至っている。

http://orthodoxjapan.jp

ORTHODOX JAPAN

<<>> w



ことばでは説明できません

I can not explain it in words

でも、いくら言葉でご説明しようとしても、正教はうまく伝えることはできません。正教は人間が頭で考え出した抽象的な「教義」でも、「歴史」でも、宗教「文化」でも、教会組織でもなく、教会生活の中に生きて働くハリストスの復活のいのちそのものです。教義も確立せず、歴史の積み重ねもなく、まして文化としてはまったく未熟で、しっかりした教会組織もなかった時代、そして現代においても、信徒ひとりひとりを生かしているのはこのハリストスの復活のいのちそのものです。いのちは言葉では伝わりません。体験の中からしかつかめないし、体験を通じてしか伝えられないのです。

友に呼びかけたフィリップにならって「来て、見てごらん」(ヨハネ福音1:46)とお呼びかけするほかありません。

<> w



プロテスタントのもうひとつの特徴が、「千差万別」

The diversity of Protestantism

プロテスタントのもうひとつの特徴が、「千差万別」。

個々の教派·教団によって、驚くほど意見が違う。真反対なこともしばしば。

<> w



日本正教会

http://orthodoxjapan.jp

The Orthodox Church in Japan

<> w



主の祈り

Lord’s Prayer – Pater noster

マタイによる福音書 6 [口語譯]

だから, あなたがたはこう 祈りなさい, 天にいますわれらの 父よ, 御名があがめられますように.
御國がきますように. みこころが 天に 行われるとおり, 地にも 行われますように.
わたしたちの 日ごとの 食物を, きょうもお 與えください.
わたしたちに 負債のある 者をゆるしましたように, わたしたちの 負債をもおゆるしください.
わたしたちを 試みに 會わせないで, 惡しき 者からお 救いください.
アーメン.

ソース:

http://orthodoxchurchinjapan.blogspot.com

日本正教会 ORTHODOX CHURCH IN JAPAN

<>



キリストの体(聖体血)を中心にした奉神礼共同体

ビザンティン時代に現在のかたちがほぼ確立した奉神礼(礼拝)には、初代教会の礼拝のかたちと精神性がしっかり保たれています。

中心となるのは聖体礼儀です。これは、神学的な理解や祈りのかたちは異なりますが、カトリック教会でミサ、プロテスタント教会で聖餐式といわれるものにほぼあてはまります。主イイスス·ハリストスの復活を「記憶」(キリスト教独自の意味があり「現実に今ここに在るものとして想い起こす」と言えば近いでしょうか)する毎日曜(主日)と諸祭日を中心に行われます。

「主が来られる時(再臨)に至るまで(コリント前書11:26)」、「私を記念(記憶)するためこのように行いなさい(ルカ伝22:19)」という教えを守り、主日ごとの聖体礼儀に集い、主のお体と血としてのパンとぶどう酒(聖体·聖血)を分かちあうことが、教会の基本的なつとめであると理解されています。一つのパンから、また一つの爵(カップ)から聖体聖血を分かち合うことを通じて、信徒はハリストス·神と一つとなると同時に、互いが一つとなり、ハリストスが集められた「新たなる神の民の集い·教会」が確かめられます。

この神との交わりの体験の積み重ねこそ信徒の成長のみなもとであり、そこで受ける神の恵みがなければ、「よい生き方」をめざすどんなまじめな人間的な努力も実を結びません。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://agoya-orthodox.com/ja/正教会とは.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



ケイリー=ヒロユキ·タガワ – 2015年11月に彼は正統派キリスト教の洗礼を受け – 3ビデオ

Cary-Hiroyuki Tagawa

生まれは東京都東麻布。父親は米軍に勤務する日系二世、母親は宝塚出身の女優である。両親ともに日本人であるが、5歳でアメリカに移住してアメリカ国籍を持っている。高校生の時から演劇に興味を持ち、南カリフォルニア大学で学んだ。この時、早稲田大学に1年間留学したという。

叔父は歌手の旗照夫、俳優の旗昭二(いずれも母親の弟)、また従弟に中山千彰(テレビプロデューサーで、元ニッポン放送ディレクター)がいる。現在はハワイに住み。

2015年11月に彼は正統派キリスト教の洗礼を受け。

<>



正教会では、主教たちはみな同等です

In the Orthodox Church all the Bishops are equal

正教会では、主教たちはみな同等です。主教が代表する一つ一つの教会は、それぞれが神さまの祝福のもとにある「完全なハリストスの体」であって優劣はないからです。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/中学生の質問にお答え.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>




東方から全世界へ

From the East to the whole world

正教会は東方正教会とも呼ばれます。ローマ·カトリック教会やプロテスタント諸教会が西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、キリスト教が生まれた中近東を中心に、ギリシャ、東欧から、ロシヤへ広がりました。20世紀になり共産主義革命による迫害を受け、多くの信徒や聖職者が世界各地に散らばっていきましたが、その結果西ヨーロッパやアメリカをはじめ世界各地に教会が設立され、西方教会しか知らなかった人々にも伝道されるようになりました。現在では移民や亡命者の子孫だけでなく、カトリックやプロテスタントからの改宗者たちも大勢出るようになり、欧米主導の現代文明の行き詰まりとともに停滞する西方キリスト教に新鮮な刺激を与えています。

日本へは江戸時代末期、函館のロシヤ領事館づきの司祭として来日したニコライ(「亜使徒大主教聖ニコライ」として聖人の列に加えられています)によって伝道されました。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://agoya-orthodox.com/ja/正教会とは.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



国内正教関連サイトへのリンク集

http://nagoya-orthodox.com/ja/allcategories-ja-jp/10-ja-jp.html

Links to domestic Orthodoxy related sites

<>



正教会のお葬式

Orthodox funeral

日本人に最もなじみ深いお葬式はいわゆる「仏式」のお葬式でしょう。祭壇に置かれたお棺を前に、僧侶が仏教の深遠な真理を記したお経を唱え、死者に真理の「悟り」を促し、「成仏」させます。「仏」とは「悟った者」という意味です。人は真理を知らないから迷い苦しむとされます。だから真理を悟れば救われるというわけです。

これに対しキリスト教のお葬式、特に私たち正教会のお葬式は「祈り」です。
私たち人間はたとえ真理を知っていても、真理を生きられません。自己中心的な生き方で神に背き、神が人に与え、その限りない深まりへとお招きになる、いきいきとした神との交わりの生活を失ってしまったからです。そこで、神はご自身のひとり子 を人としてこの世に遣わしました。ハリストス(救世主キリスト)です。悔い改め、信じ、洗礼を受けて、人となった神·ハリストスの人間性を分かち合い、人ほんらいの生き方を回復する道がさしだされました。この救いへの招きに応えたのがクリスチャンです。しかし、神に向かう者を妨げようと躍起になる悪魔の誘惑はまだ神への道の途上にあり、以前の罪深さの影響をひきずる私たちに、洗礼の後も罪を犯させます。クリスチャンは神の赦しを信じ、何度でも悔い改め、何度でも立ち上がりますが、完成への途上でこの世を去らねばなりません。もはや自分の口、自分の体で神に祈り、人生の歩みの中で悔い改めの実りを生み出してゆくことはできません。

そこで私たちは、「愛」である神に、神への愛をもって、永眠者への愛に突き動かされて、そして、教会という「愛の交わり」の中にあって、祈ります。どうか、私たちの愛する永眠者の罪を赦し、あなたのみもとにしばし安らわせ、やがて世の終わりに実現される永遠の神の国に、輝かしい肉体をもってよみがえらせ給えと。
これが葬儀や記憶祭など、正教会が死者の為に行う礼拝の意味です。

永眠者の眠る棺は、永眠者が私たちの愛の内から、神の愛へとゆだねられ、引き渡されることを象徴して、参会者の中央に、神の臨在を示す至聖所(外部会場ではハリストスの聖像や十字架が置かれる方向)へ向けて置かれます。棺は神の国への旅を安全に守る船です。
また祈祷中、参会者は、十字架で殺されたハリストスが三日目にその初穂として示し、やがて私たち神を信じる者すべてが与ることになる永遠の生命への復活を象り、立って祈ります。手に持つローソクは私たちの心に灯された信仰と、私たちを導く光·ハリストスを表します。
そして何より、参会者が一体となって祈ることを通じ、永眠者と私たちが、やがてそこによみがえり、そこで再び手を取りあい頬を寄せ合う、神の国の愛の集いへの希望を確かめ合います。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/正教会のお葬式.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH





<>



イエス·キリスト: 彼なくしてキリスト教とは言えないし、彼なくしてキリスト教の論理は通らない。 

Jesus Christ: Without Him there is not Christianity

<>



正教会とは About Orthodox Church

正教会は東方正教会とも呼ばれます。ローマ·カトリック教会やプロテスタント諸教会が西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、キリスト教が生まれた中近東を中心に、ギリシャ、東欧から、ロシアへ広がりました。

20世紀になり共産主義革命による迫害を受け、多くの信徒や聖職者が世界各地に散らばっていきましたが、その結果西ヨーロッパやアメリカをはじめ世界各地に教会が設立され、西方教会しか知らなかった人々にも伝道されるようになりました。現在では移民や亡命者の子孫だけでなく、カトリックやプロテスタントからの改宗者たちも大勢出るようになり、欧米主導の現代文明の行き詰まりとともに停滞する西方キリスト教に新鮮な刺激を与えています。

日本へは江戸時代末期、函館のロシア領事館づきの司祭として来日したニコライ(「亜使徒大主教聖ニコライ」として聖人の列に加えられています)によって伝道されました。

* * *

キリスト教の土台

イイスス·ハリストス(イエス·キリストの日本正教会訳)の十字架刑による死と三日目の復活という出来事を「神による人間の救い」として直接体験し、その証人として世界中に伝えたお弟子たちのことを特別に「使徒」と呼びます。正教会はこの使徒たちの信仰と彼らから始まった教会のありかたを、唯一正しく受け継いできたと自負します。

正教会は中世西ヨーロッパの「スコラ神学」や近代の宗教改革とも無縁でした。キリスト教会は現在は多くの教派に分裂していますが、中世のある時期までは「一つの聖なる公なる使徒の教会」(ニケヤ·コンスタンティノープル信仰告白)としてほぼ一致していました。正教会はこの東西教会が一つにまとまっていた時代に、五世紀間にわたって合計七回開催された全教会の代表者たちによる会議(「全地公会議」325年~787年)で確認された教義や教会組織のあり方、教会規則、さらに使徒たちの時代にまでさかのぼることのできる様々な伝統を切れ目なく忠実に守り続けています。正教会と他の諸教会が「分裂」したのではなく、正教会から他の諸教会が離れていったというのが「教会分裂」の真相です。

教義的には、人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙するという古代教会の指導者(聖師父)たちの姿勢を受け継ぎ、後にローマ·カトリック教会が付け加えた「煉獄」·「マリヤの無原罪懐胎」·「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教え」は一切しりぞけます。またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように「聖書のみが信仰の源泉」だとも「救われる者も滅びる者もあらかじめ神は予定している」とも決して言いません。かたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を、「付け加えることも」「差し引くこともなく」守っています。

教会組織も、ローマ·カトリック教会のようにローマ教皇をリーダーとして全世界の教会がきちんと一枚岩に組織されたものではなく、各地域の独立教会がゆるやかに手を結びあっているにすぎません。しかし強力なリーダーシップがないからと言って、聖書解釈の違いや教会のあり方への理解の違いから無数の教派に分裂してきたプロテスタント諸教会とは異なり、正教信仰と使徒からの教会の姿を各教会がすすんで分かち合うことによって「正教会」としての一致を保ち続けてきました。

* * *

キリストの体(聖体血)を中心にした奉神礼共同体

ビザンティン時代に現在のかたちがほぼ確立した奉神礼(礼拝)には、初代教会の礼拝のかたちと霊性がしっかり保たれています。

中心となるのは聖体礼儀です。これは、神学的な理解や祈りのかたちは異なりますが、カトリック教会でミサ、プロテスタント教会で聖餐式といわれるものにほぼあてはまります。主イイスス·ハリストスの復活を「記憶」する毎日曜(主日)と諸祭日を中心に行われます。

「主が来られる時(再臨)に至るまで(コリント前書11:26)」、「私を記念(記憶)するためこのように行いなさい(ルカ伝22:19)」という教えを守り、主日ごとの聖体礼儀に集い、「主ハリストスの体と血」へと成聖されたパンとぶどう酒(聖体·聖血)を分かちあうことが、教会の基本的なつとめであると理解されています。一つのパンから、また一つの爵(カップ)から聖体聖血を分かち合うことを通じて、信徒はハリストス·神と一つとなると同時に、互いが一つとなり、ハリストスが集められた「新たなる神の民の集い·教会」が確かめられます。

この領聖(聖体拝領)の体験の積み重ねこそ修道士、一般信徒を問わず信徒一人一人の神との交わりへの成長のみなもとであり、そこで受ける神の恵みがなければ、「よい生き方」をめざすどんなまじめな人間的な努力も実を結びません。

しかしどれほど言葉を重ねても正教を完全に説明し尽くすことはできません。正教は人間が頭で考え出した抽象的な「教義」でも、「歴史」でも、宗教「文化」でも、教会組織でもなく、教会生活の中に生きて働くハリストスの復活のいのちそのものです。教義も確立せず、歴史の積み重ねもなく、まして文化としてはまったく未熟で、しっかりした教会組織もなかった時代、そして現代においても、信徒ひとりひとりを生かしているのはこのハリストスの復活のいのちそのものです。いのちは言葉では伝わりません。体験の中からしかつかめず、体験を通じてしか伝えられません。

友に呼びかけたフィリップにならって「来て、見てごらん」(ヨハネ福音1:46)とお呼びかけするほかありません。

ソース:

http://orthodoxjapan.jp/seikyoukai.html

日本正教会 The Orthodox Church in Japan

<>



キリスト教とは、この聖書の教えに基づいて生きようとした人々の歩みそのものです

Christianity is the walk of the people who tried to live based on the teachings of the Holy Bible

キリスト教とは、この聖書の教えに基づいて生きようとした人々の歩みそのものです。新しい神の民である教会(キリスト信者の共同体)は、それぞれの時代、それぞれの文化·社会の中で、キリストに従って歩もうとしてきました。教会の使命はイエスの使命を受け継ぎ、神と人との交わり·人と人との交わりを取り戻すために働くことです。

キリストの使徒から始まる教会の2000年の歩みという土台なしに今のわたしたちの信仰はありません。この歴史の中で今の教会の祈りや信仰生活のスタイルが生まれ、育ってきましたし、教会の信仰理解も深まってきたのです。

<>



立つこと

聖体礼儀 Divine Liturgy

正教徒の祈りの姿勢の基本は立つことです。 ハリストスの復活と、その復活を 分自身の ものとして体験するためです。 もちろん、病弱な方·高齢者のためにイスは 少し用意されていますが、小さな子供も、幼い 時から聖堂では立つことをしつけられます。


<>



聖金口イオアンの聖体礼儀 

http://www.orthodox-jp.com/liturgy/prayerbook/Liturgy_Gr_Sl_Jp.pdf

Divine Liturgy of St Chrysostom

PDF

<>



信徒の集い

聖体礼儀 Divine Liturgy

信徒は、単にそれぞれの祈りを祈るために、聖堂へ集まるのではありません。ハリストスが お集めになった「神の民の集い」をまさに体験 するために集まるのです。人間が、ハリストス によって孤独な「私」から「私たち」に再創造され たことを…

<>

祈りに興じる To pray

至聖三者聖セルギイ修道院

2002年2月末から3月始めにかけて、名古屋教会司祭は モスクワ郊外の至聖三者聖セルギイ修道院へ単身研修派遣されました。 教団機関誌「正教時報」に掲載されたレポートをご紹介します。 正教の奉神礼的生活の一端にでも触れていただければ幸いです。

***

伝統には誰でも近づくことができます。伝えられてきたものを忠実に再現することは根気さえあれば、いずれ誰にでも可能となります。幼い時から修行に励んでいれば、私だって今頃はいっぱしの職人でしょう。
 しかし芸術にせよ、思想にせよ、生き方にせよ独自の新しい世界を創り出すのは誰にでも可能なことではありません。創造的という悪魔的な言葉にとりつかれ、どれほど多くの人々が人生を空費してしまったことでしょう。
 生きること、そして日々の生活には安定したかたちが必要です。まずそのかたちを生活の律動の中で、共に生きる人々と分かち合うことが、生きることの喜びや楽しさへの誰にでも開かれた入り口です。私たちの不幸はそのかたちを失ってしまったことです。

 二月末から三月始めにかけ十日間、モスクワから数十キロ北にある至聖三者·聖セルギイ大修道院で過ごしました。七百年近い歴史を持つ、つねにロシア正教会の中心にあった修道院です。巡礼者や観光客への活発な対応へのいそがしさという外皮をはぎ取れば、「伝統」といったら他にどこで探せるのかというほど伝統的な暮らしがそこにあります。
 朝の五時半、聖セルギイの不朽体を前にした聖人への感謝祷から始まり、徹夜祷が永眠修道士たちへのリティアで終わる夜八時近く(日曜は徹夜祷が長く九時頃)まで、奉神礼を中心にした生活が毎日厳格に繰り返されます。修道院側から丁重にも立派なゲストルームを提供されたため体験できませんでしたが、おそらく修道士たちの修室でも祈りや労働を中心にした伝統的な生活が規則正しく実践されていることでしょう。鈴の音で始まり、聖人伝の誦読の内に「着々と」進む大食堂での食事にその片鱗をかいま見たと言えるかもしれませんが。
 しかし、そこでは、伝えられたかたちに縛り付けられ、凍り付いてしまった人々は見受
けませんでした。もちろん勝手気ままな無秩序な生活があるのでもありません。伝統やかたちがあるがゆえに人々は逆に解き放たれているとでも申しましょうか。

滞在二日目の日曜、見事な英語を話す修道女で、私のために大修道院内の案内をしてくれたセルゲイア姉に、「これが鐘楼です」とうながされたとき、何の気なしに自分が神学生時代にニコライ堂で鐘を打っていたことを話しました。すると彼女は一人の修道司祭を引っ張ってきて「こんな訳だから夕方の打鐘の際にゲオルギイ神父を鐘楼に案内してやって欲しい」と頼んでくれました。その修道司祭コルニリイ神父は相好をくずして、繰り返し「四時四十五分だよ」と念押ししました。

約束の時間に行くと、すでに鐘楼へ招かれた巡礼者や子供たち十数人に囲まれて、こぼれるような笑顔のコルニリイ神父が待っていました。「こんなよいものを、こんなにたくさんの人たちに見せてあげられて、今日はなんてステキな日なんだろう」と言わんばかりです。手を取り合い、ひげ面で抱き合うや、ただちに出発です。工事中の場所もあり足場も悪い(危険と言った方が正確)階段を、弾むようにのぼっていく神父について、数分かかってようやく鐘楼に着きました。息切れでしばらく声も出ません。すでに若い修道士が大鐘を打って います。眼下には大修道院が隅々まで見下ろせます。大修道院をとりかこむ門前町、人口五万人ほどのセルギエフ·パッサードの市街の向こう側は、森や教会の金色の丸屋根が散見されるだけの大雪原です。そのはるか彼方では、もう灰色の空と雪原との区別はできません。

 もう一人の修道士が時計をちらっと見て、大小の鐘が十数個並んでいる場所に上がり、規則正しい大鐘のテンポに滑り込むように幾つもの鐘を軽やかに奏ではじめました。修道士は大雪原の彼方を見つめながら、胸を張り、両手両足を繰って華やかに、力強く、そして繊細に複雑な響きを打ち鳴らします。その時、私は彼の姿に、伝えられた生活と伝えられた祈りのかたちに「興じる」幸福な人間を見たような気がしました。すぐにその姿は、日本なら「もし事故でもあったら誰が責任をとるんだ」としか誰も考えないような、ブリキの切れっ端や木っ端が散在した鐘楼への階段を、「ここは危ない」「あそこは気をつけて」とにこにこしながら私たちを引率していったコルニリイ神父の姿にも重なりました。さらに身振り手振りよろしく、流ちょうな英語でこの大修道院の聖なる歴史や無数の聖遺物を紹介してくれた、知的でしなやかな、ユーモアあふれるセルゲイヤ姉にもそのイメージはつながっていきました。彼女には修道女という言葉で連想しがちな「思い詰めた敬虔ぶり」など気配にもありませんでした。

修道院での十日間は、このような連綿と伝えられてきた祈りの生活に「興じる」人たちの発見の日々だったとも言えるでしょう。

 鐘楼から大急ぎで向かった、二千人は収容できるかと思われるセルゲイ聖堂ではすでに晩祷が始まっていました。修道士たちは立っていたり座っていたり。誰かが立ち上がれば、他の誰かが座るということもあります。それをいちいち咎める人など一人もいません。
 朗々とスティヒラの句を読み上げる司祭も、それに答えて交互に唱う左右の聖歌隊も「楽しそう」なこと。神学生や神科大学の学生たちに修道士も混じる若さみなぎる聖歌隊です。互いに競い合う様子が手に取るように伝わります。自分たちの部分を元気よく歌い終えると、それを聞いていた向かい側の聖歌隊に向かい「どんなもんだ」とガッツポーズさえ送りかねない張り切りようです。
 宝座への接吻のために至聖所へ入ると、ポリエレイに備えて司祭たちが金色の祭服をまとって待っています。若い司祭たちが挨拶に来て、「こんなよい所へ、遠いところからまあ、よく来たじゃないか」…そう言っているかのように、ぎゅっと手を握り、ガバッと頬を寄せ、ひしと抱きしめてきます。高座の長いすに座っているミトラをかぶった年輩の高位司祭たちは、なにやら楽しげに小声で頷き合いながら、豊かな白い髭をしごいていたりします。恰幅のよい掌院とおぼしき神父が私に目をとめ、歩み寄ってきてロシア語で話しかけました。多分名前を聞かれたのだろうと「ゲオルギイ」と答えると、至聖所の奥からエピタラヒリとフェロンを持ってきて「アチェツ·ゲオルギイ。ポリエレイ(だから祭服を着なさい)」と差し出してくれました。その時のゆったりと包み込むような笑顔にほっとしたこと。やはり相当緊張していましたから。
 そんな至聖所内には、「今日も神さまを美しい祈りで讃えさせていただける」といった、子供っぽいとも言えるナイーブな期待感が溢れています。ここにも伝えられた祈りの生活に「興じる」人たちがいました。

しかしもっと印象的だったのは、ポリエレイを終えて聖所に戻ったときでした。イコノスタスの前に置かれた幾つもの燭台のローソクをうやうやしく世話している初老の修道士がいます。短くなったものを燭台のすぐ下に置いてある箱から長いものに取り替え、となりのローソクの熱で曲がったものは、引き抜いて、冷ましながら、ゆっくり何回かしごき真っ直ぐにのばして差しなおします。それを見ている私の視線に気づいたのか、彼はすっと胸を張り、こちらに顔を向け、口元に何とも言えない誇らかな笑みを浮かべました。次の日も、また次の日も修道院滞在中ずっとそれは変わりませんでした。これまでも、これからも同じでしょう。その誇らかさは、何ごとも上長に絶対服従して、従順に、謙遜に…、といった修道士の紋切り型のイメージでも、下積みの人たちにありがちな「俺はもう何十年この仕事を受け持ってきたんだ」といった押しつけがましいプライドとも違うものでした。やはり、祈りに「興じる」、その無条件のしあわせに自分も与れることへの喜びの表現でしょう。彼の仕事が聖歌隊やまして聖職者たちの華やかな仕事ではなかったのでなおさら、彼の誇らかさは、正教会が祈りを「奉神礼」、ギリシャ語でリトゥルギア、すなわち神の民の「仕事」と呼ぶ意味を実感させてくれるものでした。そういえば、四時間近く十字を切り叩拝する以外にはほとんど同じ場所で立ちつくすばかりの千人以上の会衆も、たとえ肉体は苦痛でも心では、仕事の一翼を担う者として「正教会の伝える『立って祈る』というかたち」に「興じて」いるのではないか、そんな思いすら浮かびました。

 例をあげればきりがありませんが、祈りに興じる人たちを他にもたくさん発見しました。奉神礼の場だけではなく、そこでは生活全体が祈りへの備えとして「祈りの生活」です。この大修道院全体が、祈りに、すなわち生活に興じているといってもよいでしょう。
 しかし、この発見は大修道院だけでのことではありませんでした。大修道院を辞して二日後、帰国の日の朝、モスクワの友人が通う教会の聖体礼儀に与りましたがも、そこにも祈りに興じる人たちがあふれていました。古い聖堂の修復作業に信徒が何年も協力を続けているという、内部に足場を組んだままのこの小さな教会も、やはり祈りに興じていました。

 しかし私は、「やっぱりロシアは…」と言いたくてこんなことを申し上げているのではないのです。
 帰国して三日目、充分に疲れが取れないままに立った名古屋教会の聖体礼儀、ここにもはやり「祈りに興じる」なつかしい仲間たちがあふれていました。尋ねてきた人が、なんと教会の門前から「道に迷ってしまいました」と携帯をかけてきたことがあるほどのつつましい会堂です。しかし、信徒全員が無事領聖した後、ポティールを掲げて堂内を見渡したとき、堂内全体が喜びで輝いていました。大修道院の聖体礼儀にあった喜び、モスクワの町の教会にあった同じ喜びが、ここにもありました。これまでにもあったし、これからもあり続けるでしょう。

おそらく日本中の正教会で、小さな教会でも大きな教会でも、正教徒なら誰でも知っている、神さまの前に子供らしいキマジメさで奉神礼を献げさせていただける、言いかえれば祈りに興じさせていただける喜びがあふれているはずです。伝統的な正教国の教会にも、伝道教区の小さな集いにも、世界中の正教会に日曜日を待ち望む人たちの日曜日に向けた生活がいきづいているはずです。
 これこそハリストスを愛しその尊体血を分かち合う人々の集いに溢れている聖神が、私たちに贈ってくれる至福です。寒風吹き抜ける鐘楼でコルニリイ神父が、暗い聖堂内でローソク係の修道士が、あらためて、またハッキリと確かめさせてくれた至福です。


<>


どうやって霊的弱点から逃れるか

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

Should it be better to truncate 
all faults or bad hurts immediately or is it wisely to overcome little by little?

――聖山アトスのパイシイとの対話――

――長老様、欠点や悪習はすぐに全部切り捨ててしまうのがよいですか、それとも少しずつ克服していくのが賢明でしょうか。

――もちろん出来ればすぐに切り捨てるのがよい。でないと大きくなるいっぽうじゃからの。ここで手をこまぬいていてはいかん。冬に川渡りをすることを考えてみるがよい。凍えてしまわないうちにさっさと渡ってしまおうとするではないか。誘惑もそれと同じで、ためらいは無用じゃ。



ソース:

https://japanheavenonearth.wordpress.com

地球上の天国 – 日本 – 正教会

HEAVEN ON EARTH – JAPAN – ORTHODOX CHURCH

<>




悪魔は人を誘惑することを止めようとはしないが

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

The devil will not stop tempting people

――聖山アトスのパイシイとの対話――

――長老様、シリアの聖イサークはこう言いました。「弱点がない状態というのは、誘惑を感じないのではなく、誘惑を心に容れないことである」 このような状態を勝ち得た人が、誘惑の前で困難を感じることはありますか。

――それはあるかもしれん。ただ、悪魔が何をしようとしても、すべて修行者の中に燃えている神の炎がそれを焼き尽くしてしまうじゃろう。悪魔は人を誘惑することを止めようとはしないが、敵の誘惑を心に受けとめなければ、その時心は浄められ、ハリストスがお入りになられる。人の心は「燃え尽きることのない柴」、窯に変わる。何が心に入り込もうと、焼き尽くされてしまうのじゃ。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_どうやって霊的弱点から逃れるか.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>




どうやって霊的弱点から逃れるか

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

――聖山アトスのパイシイとの対話――

――長老様、誘惑と戦う気持ちを起こさせるには、神への感謝の気持ちだけで十分ですか。

――それだけでは十分ではない。善い意志と、自分の罪深さを自覚すること、そして一生懸命修練を積むことが不可欠じゃ。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_どうやって霊的弱点から逃れるか.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>




自己愛とは何か

聖山アトスのパイシイとの対話

What is self-love?

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

Q&A


――長老様、自己愛とは何ですか。

――自己愛とはな、人間が古ぼけた自分にこだわりを持つこと、つまり古ぼけた自分をよけいに愛することじゃ。腹いっぱい食ったり、自分勝手だったり、頑固、ねたみ、みんな自己愛から来ておるのじゃよ。ある者は便利さや快適さを求めて、他の人のことは考えもしないものじゃ。またある者は自分の健康にこだわりすぎるあまり、睡眠やら食べ物やらの決まりで頭がいっぱいだったりする。またある者は、周りが認めて評価してくれることばかり要求している。ちょっとでも傷つくようなことがあれば、すぐに憤慨しよる。「何でおれのことを認めてくれないんだ?どうするか見ていろ!」ってな。いやはや、自己愛とは恐ろしいものじゃ。

* * *

――長老様、どうして人が「爾のために我を殺さん」などと言えましょうか。

――言えるとも。他人のために自分の欲望を犠牲にすればな。どんな望みも、結局は「自分」、つまり自己愛を反映しておるのじゃ。自分がいいと思うものが、必ずしも他人の気に染むとは限らない。それを考えないでいると、あれが欲しいこれが欲しいと要求したり、「どうしてみんな私に○○をしてくれないのか、××を与えてくれないのか?」などと考えるようになる。こういう人間はゆくゆくは悪魔の手に落ちるのじゃ。

* * *

――自分の思い通りに事が運ばなければ気がすまない人々がいます。

――気がすまないのも当然じゃ。なぜって、何を望もうにもその中に「私」が陣取っておるのじゃからの。「私」ががんばっておる所に、ハリストスのおられる場所はあるかの?しかし「私」がたった独りの主ハリストスに場所をゆずれば、必要なものはすべてそろったと言えるのじゃよ。逆に言えば、ハリストスのおられぬ所にはなにもない。人が「自分」を捨てるとき、神は驚くべき方法ですべてを人に与えられるのじゃ。

* * *

――長老様、「自分」を捨てなければならぬとおっしゃいますが、それを考えるとこわくなります。もし私がそれに耐えられなかったら?

――何ということを!そりゃお前さん、「もし私が自分の霊的欠点をすべて捨てたら、後は何が残るだろう?」と言っているのと同じじゃよ。「自分」というのは、霊的欠点のことじゃよ。古ぼけた人間の皮を脱ぎ捨てることを意味しているのじゃ。分別のある大人が「『自分』を捨てることは出来ません」と言うのはおかしいのではないかな。もちろん、筆しか握ったことのない人間にくず鉄のかたまりを渡して「この壁を壊してみよ」と言ったら、「出来ない」と言うじゃろう。しかし古ぼけた人間の皮を捨て去るのに力は必要ないんじゃ。必要なのはあきらめじゃ。

自己愛というのは、必要以上に食ったり休んだりすることをいうのじゃ。健全な意味で、身体には必要なぶんだけ与えればよい。欲望と必要は区別しなければいかん。欲望とは体を甘やかすことで、必要とは不可欠なものじゃよ。たとえば、わしの前に料理が二皿あるとする。どちらも同じようにビタミンが豊富じゃが、一つはおいしいもので、もう一つはそれほどでもない。もしおいしいほうを好んだら、それは自己愛になる。だがもし病気で食欲がないところへそれを増す必要があるからうまい料理を取るのだとしたら、それは思慮深い判断じゃ。

 師父マカリイが言うように、体というものは「悪い集税吏」でな。必要以上に要求するのじゃ。それは今までの習慣にどれだけ体が慣らされているかによるがの。小さい胃袋の持ち主は斎(ものいみ)するのは簡単じゃろうが、胃袋が大きければ人はその奴隷になってしまう。いつも何がしかの食べ物で胃を満たさねばならんからな。たとえば、こんな人がいるとする···その人の胃袋は倉庫みたいなもので、少なくとも子牛を半頭食べなければ気がすまん。で、食後はバケツ2杯分の水を飲む。

* * *

――長老様、昔の人はどうでしたか。体は今の人より丈夫だったのではないですか、それとも自分を甘やかさなかったのでしょうか。

――そりゃもちろん、頑丈だったし、自分を甘やかさなかったよ。長老ハッジ=ゲオルギイは修道士たちに毎日クルミと蜂蜜を少しやっていた。だって修道士は15歳やそこらで、まだ若い。成長しなければならない大切な時じゃ。ところが霊的にはまったくの大人だったのじゃよ。今はどうか?みんなこの世の論理に振り回されておるではないかの。「子どもたちには斎させる必要はありません。病気になったりしたら困りますから。不足を感じることがないように、困ったことからは守ってやらなければなりません」。かわいそうに、子どもたちはハンバーグやらトンカツばかり欲しがるが、それが何か彼らによい結果をもたらしておるかの?

 ハリストスのために食べない者は、真の意味で自分を養っておるのじゃよ。もしハリストスのためにうまい料理よりまずいものを取るのだとしたら、それはまずいものを通してハリストスで自分を養っているということになる。

* * *

――長老様、今日教会で、お年寄りがやっとのことで階段を昇っているのを見ました。脇を通り過ぎていった人も多かったのに、誰も助けてやろうとはしませんでした。

――「祭司は···彼を見たが向こうを通っていった。そしてレビ人も···これを見たが向こう側を通っていった」ということかな?まったくその通りじゃ。福音書の善きサマリヤ人のことを知らないし、聞いたこともないのじゃな!言うべき言葉もない。他人ではなく自分を愛しているというわけじゃ。自己愛は他人への愛を滅ぼす、だからそういうふうに行いに現れてくるのじゃよ。しかしな、自分を愛する者は、福音書の心で生きてはいない。もしハリストスがご自分のことだけお考えになっておられたとしたら、天から地には下りて来られなかったじゃろう。わしらの救いのために苦しみをお受けにはならなかったじゃろうな。

 きょうびほとんどの人間が自己愛を持っておるが、犠牲の心はない。「せめて自分さえよければ」という精神が支配しておる。周りの人々を見回せば、つらくなるばかりじゃ。近頃、病院でこんなことがあったよ。病人を起こして別の病室に移してやる必要があったのじゃが、看護師は腰を上げようともせんのじゃ。「出来ません。私は腰痛持ちですから」などと平気で言ってのける。それが自分の仕事であるにもかかわらずじゃ。なんとまあ、非人間的なことじゃろう!ところが身重の看護婦が同僚といっしょに病人を起こして運んでいったよ。彼女たちは自分のことは考えになかったのじゃ。一人など、大事な体だというのに、それも忘れてすぐさま助けようと走り寄ってきた。こういう、つらい立場にありながら他人のために自分を犠牲にする人を見ると、わしは本当にうれしい。心が躍るような思いがするし、親しみを覚える。なぜならそういう人は神に近いからじゃ。

* * *

――長老様、今日はずいぶん大勢の人があなたを待っておりましたが、一人の若い男性が列に並ばずに入っていきました。

――そうとも、入ってきてこう言うのじゃ。「あなたにお目にかからなければなりません。私はアテネに行きましたが、おられなかったのでここに来ました」

 「よかろう、」とわしは言ったさ。「で、お前さんは見えんのかね、みんな待っているのを?他の人達をさしおいてお前さんの相手だけしていていいものじゃろうか?」

 「父よ、その通りです」とまあ、こう言うのじゃ。まったく、どういうことじゃろう!みんな立って待っておる。すし詰め状態じゃよ。病人やら子ども連れの女性やら···ところがこの男は自分の要求を通そうとするのじゃ。それで、何か深刻な問題でもあるのかと思ったら、何やらつまらんことを持ち込んで来よった。いちばん大事なのは自分で、他人など滅ぼうがおかまいなしというわけじゃ。

 こういうこともある。「父よ、今日は私のためだけに祈ってください。他の人達のことは祈りませんように」。こんな要求があっていいものかね?「この列車に乗るのは私一人だけ、他の人が車両に入らないように」と言うのと同じじゃ。列車はどっちにしても出発する、それなら他の人達もいっしょに乗っていっておかしいわけがなかろう?

* * *

――長老様、ハリストスのみ言葉「自分の魂を救わんとする者は、これを滅ぼさんとす」はどう解釈したらよいのでしょう。

――自分の命をよい意味で「滅ぼす」ということさ。自分の命を勘定にいれず、他人のために犠牲にするというわけじゃな。聖使徒パウエルも言っておろう、「おのれの益を求めず、他者の益を求めよ」とな。ここに霊的生活のみなもとがあるのじゃ。よい意味で自分のことを忘れて他人とまじわり、苦痛や困難を分け合うことじゃ。どうやって困難を避けるか、その方法を探すのではなく、他の人を助けてなぐさめてやる方法を考えることじゃ。

* * *

――長老様、そのためには何が他の人に必要か考えなければいけませんが、どうしたらよいですか。

――他人の立場に自分を置いて考えてごらん。そうしたら何が必要か分かるじゃろう。自分の殻の中に閉じこもっておったら、他人が何を求めておるか分かるはずもないからな。

今は多くの人が、どうやったら他人の場所に座れるかということばかり考えて、自分を他人の居場所に据えてみるかということはてんで考えもせん。領聖の時によくあることじゃが、他人を押しのけて聖杯に近づこうとする。「私は急いでいる、用事があるんだ」とそれぞれが考えていて、「私は領聖するにふさわしい人間であろうか?」とか「もしかして私より急いでいる人がいるかもしれない」などと考えておるかの?とんでもない!領聖して、平気な顔で出ていくのじゃ。万が一ご聖体がお前さんのぶんだけ足りなかったとしても、お前さんはそれを喜ばなければならん。それは誰か他の人がご聖体にありついたことを意味しているからじゃ。司祭の手のなかにたった一つのご聖体、たった一つの真珠が残ったとして、それをお前さんではなく、領聖する必要のある瀕死の病人が受け取ったとしたら、どうして喜ばずにいられよう?ハリストスがわしらに望んでおられるのは、実はこのことなのじゃ。こうしてハリストスが心にお入りになり、人を喜びで満たすのじゃ。

* * *

――長老様、私は姉妹のうちの一人とうまくいっておりません。

――それはな、多くの人は他人が自分を圧迫していると感じるのじゃが、実は自分が他人を圧迫しているということが見えないんじゃ。他人に要求はするが、自分に対してはどうかの?霊的生活というのは、このように逆に考えなければならん。わしらがこの世に生まれたのは、休んだり、便利に快適に暮らすためかの?陽気に楽しく暮らすためではなく、自分を浄めて、来る別な人生に向けて準備をするためじゃ。そうではないか?

もしわしらがいつも自分のことばかり考えて、好きなことばかりしていたとしたら、じきに他人もわしらのことを考え、仕え、助けてくれるよう求めるようになるじゃろう。つまり、自分がよければいいということじゃ。「私はこうしたい」と一人が言えば、「私はああしたい」と別な者が言う。おのおのが自分の好きなことを追うが、心はいつまでたっても落ち着かない。なぜなら、本当の平安は、人が自分のことでなく、他人のことを考える時に訪れるからじゃ。

1941年、ドイツ軍に占領されておった時、多くの村が焼き払われたり、人々が殺されたりしておった。わしらはコニーツァから山の方へ疎開したんじゃ。ドイツ軍がコニーツァに侵攻した日、わしの兄弟二人は山を下りて、トウモロコシ畑の土を掘り返しに行っていた。わしはその知らせを聞いて母のところへ飛んでいった。「お母さん、下に行ってお兄さん達に危険だって伝えてくるよ」。母はわしを行かせようとしなかった。なぜなら周りが言うに、いずれあの二人はだめだろう、だったらせめてこの子だけは引き止めておけ、さもないと子供を皆失うことになる、ってな。「そんなことがあるものか」とわしは思い、長靴をはいて外に飛び出した。あまり急いでおったもので、長靴のひもをきちんと結んでおかなかったんじゃな。撒水したばかりの畑でぬかるみにはまって、長靴だけすっぽ抜けてしまった。わしは靴は放っておいて、はだしで川沿いに走っていったのじゃが、そこはアザミがいっぱい生えておったのじゃよ。1時間近く夏の暑い中、トゲだらけの草の中を走って、何の痛みも感じなかったな。畑に着くと兄弟に大声で「ドイツ軍が来たぞ、早く隠れて」と叫んだよ。そこへ武装したドイツ軍の兵士が近づいてくるのが見えたんじゃ。「畑を掘るのを続けて。僕はトウモロコシを間引きするふりをしているから」とわしは言ったんじゃ。ドイツ兵は脇を通っていったが、何も言わなんだ。後で自分の脚を見たら、トゲで傷だらけになっておった。その時まで痛いなんてことさえ感じなかったのじゃ。このときの喜びといったら!自分を犠牲にした喜びじゃ。自分の兄弟を見殺しに出来るかの?もし彼らに何か起こっていたら?その時はわしの良心が苦しめたじゃろう。たとえわしに良心がなかったとしても、自分を正当化して言い訳する苦しみに苛まれたじゃろうな。

* * *

――長老様、どうして私の心は時々しか平安を感じないのでしょう?

――お前さんがまだ「自分」、古ぼけた人間の皮から脱皮していないためじゃよ。「自分」を殺すように努力してごらん、でないとそれはお前さんを滅ぼしてしまうよ。自己愛があると、心の平安を感じないものじゃ。なぜって内側では囚われの身になっているからな。そういう人間は何をしようにも、どこに行こうにもまるでカメみたいなものじゃ。カメが自分の頭を自由に出し入れ出来るかの?だいたいは甲羅こうらの中に閉じこもったままじゃろうが?

* * *

――理屈の上では私は自分をよくしようと努めているのですが、実際には···

――実際には難しい、と。ほら、こんな風にして古ぼけた人間の皮がわしらを圧迫するのじゃよ。だが、もし健全な判断をもって克服するよう努めれば、それはわしらを解放する。その時霊的生活は空中高く飛躍するのじゃ。

* * *

――長老様、地獄とはどんな風ですか。

――わしが聞いた話をしよう。ある無学な男が、天国と地獄を見せてほしいと神様にお願いした。そしてある晩、夢の中で声を聞いたんじゃ。「さあ行こうではないか、お前に地獄を見せてあげよう」。男はとある部屋の中におった。まん中にテーブルがあって、周りに人が大勢座っておる。テーブルの上にはなべがあって、料理でいっぱいじゃ。ところが皆飢えておる。柄の長いスプーンで食べ物をすくうのじゃが、口に持っていくことが出来ん。だから不平を言ったり、わめいたり、泣いたりしておるのじゃよ。そこでまた声が聞こえた。「今度は天国を見せてあげよう」。男はまた別の部屋に連れて行かれたが、同じようになべの乗ったテーブルがあって、柄の長いスプーンを持った人々が座っているのも同じじゃ。だがここでは皆腹いっぱいで楽しそうじゃ。それもそのはず、おのおのがスプーンで食べ物をすくうと、別の者を食わせてやっていたからじゃ。これでもうお分かりじゃろう、この世でどうやって天国を感じることが出来るか?

 善を為す者は、神のなぐさめを受けているのでうれしいのじゃ。悪を為す者は苦しむ。この世の天国がこの世の地獄に変わってしまう。もしお前さんの心に愛や善があれば、どこに行こうが何をしようが、天国を持ち歩いているようなものじゃ。もし心に欲や憎しみがあったら、それはお前さんの中に悪魔がおるということじゃ。それだからどこに行こうと何をしようと、地獄がついていくじゃろう。こうしてわしらはこの世にあってもう天国と地獄を体験するのじゃ。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_自己愛とは何か.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



どうやって霊的弱点から逃れるか

Does thinking of death help spiritual deeds?

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

――聖山アトスのパイシイとの対話――

――死を思うことは霊的行いの助けになりますか。

――非常に助けになるとも。神に望みを託しながら死について考えると、この世の空しさがよく分かる。そして霊的な助けを得ることが出来るのじゃ。だから神の裁きに思いをはせなければならん。わしらが悔い改めなかった罪の責任をいずれ負わなければならないということを忘れてはいかんのじゃよ。「私は何をしているのか?どうして喜びを感じずに生きているのか?今死んだとしたら、私はどうなってしまうのか?私が死と契約を交わしたとでもいうのか?大人も子供も関係なく死んでいるというのに?神がもうすぐご自分のもとに私をお呼びになるとすれば、その時はもう罪を犯すことはないだろう」。

弱点を根絶やしにするには、死、最後の審判のことを考え、自分がどんなに努力しているかをハリストスにご覧いただかなくてはならん。だってハリストスがわしらを救うために大変苦しまれたのだからの。誘惑との戦いというものは、ハリストスの愛のもとに神の掟をまっとうするための甘美な受難と同じ事なのじゃよ。すべての欠点に打ち勝ってハリストスを侮辱するよりは、英雄的に死んだほうがましというものじゃ。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_どうやって霊的弱点から逃れるか.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH



<>



葬儀社とはなんですか?

What is a Funural?

お葬式のしきたりは

臨終が近づいたら司祭を呼び、臨終のお祈りをします。息を引き取ってから三日目に埋葬式を行いますが、その前夜には前夜祭の祈りが行われます。永眠者(死者のことを正教会ではこのように呼びます)は本来土葬されます。これはハリストスの復活のおかげで、人間の死は「終わり」ではなく、主の再臨の時に実現する全死者の復活までの「眠り」にすぎなくなったことを、表すためです。残念ながら、日本では土葬が許される都道府県が少なく、ほとんどの場合やむなく火葬しています。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/中学生の質問にお答え.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



天国にはどうやって行くのですか

How do I get to Heaven?

天国にはどうやっていくのか、つまり最後の審判の時に、永遠の生命をいただくためにはどうすればいいのか。簡単です、神さまがお喜びになるような生活をすることです。つまり、それまでの神さまに背いていた生活を悔い改め、ハリストスの救いを信じ、ハリストスの教えた生き方を生きること、つまり「愛」です。仲直りできていない人がいれば赦し、仲直りし、人をいじめたり困らせるのをやめ、反対に、弱い人たちを助け、困っている人たちに親切にし、悲しんでいる人を慰めてあげることです。

キリスト教のことを全く知らないで生涯を送った人でも、同じような愛の生活を送った人は、永遠の生命に入れられるでしょう。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/中学生の質問にお答え.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



聖書の内容を教えてください

Please tell me the contents of the Bible

現在キリスト教が用いている聖書はおよそ二千年近くかかって書き記された様々な文書を寄せ集めたものです。それは、それぞれの時代の、指導者たち、祭司たち、預言者たち、詩人たち、また新約聖書ではハリストスの使徒たちが、神さまから特別のお力をいただいて書き記しました。神さまが人間に教え伝えたいメッセージを知るための、大変重要な啓示(本来目に見えない神さまが人にご自分を示すこと)です。

旧約聖書は、天地創造の物語からイイススがこの世に生まれる直前までの、人類と、特に神さまが人間の救いの突破口としてお選びになったユダヤ民族の、神さまとの関わりが、歴史物語、律法(守るべき戒め)、礼拝の歌、預言者たちの言葉など、さまざまな種類の文書で描かれています。

新約聖書は、ハリストスの生涯とそのお言葉を伝える四つの「福音書」、使徒たちの働きを記録した「使徒行伝」、聖パウロや他の使徒たちの「手紙」と、この世の終わりのことを不思議な象徴をたくさん使って暗示した「黙示録」によって構成されています。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/中学生の質問にお答え.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



どうやって霊的弱点から逃れるか

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

I always try to fight seriously with my own faults, but I will not do anything after all. 
Why is that?

――聖山アトスのパイシイとの対話――

――長老様、私はいつも自分の欠点と真剣に戦おうと思っているのですが、結局何もしようとしません。なぜなのでしょう。

――何だってお前さんはすぐに全部解決しようとあせるのかの。欠点というものは高徳と同じで、一つの輪っかになっているのじゃよ。一つの欠点がもう一つと結びついているように、徳も別の徳とつながっていて、まあ、列車の車両みたいなものじゃな。もしお前さんがある弱点と戦って、自分の心の中にその欠点と正反対の徳を育ててみたとしたら、しまいにはお前さんが戦いに勝つじゃろう。そうやって一つの弱点から逃れれば、結局は別の弱点も克服することが出来、それと同時にお前さんの心に徳は増していくばかりなのじゃよ。

たとえば、お前さんがねたんでいるとする。ねたみと戦って、自分の心に愛や善い行いを育てれば、ねたみばかりでなく、同時に怒ったり、人を議したり、憎んだり、悲しんだりすることから逃れることが出来るのじゃ。


<>



どうやって霊的弱点から逃れるか

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

――聖山アトスのパイシイとの対話――

――自分の欠点のことを考えると、どうしたらいいか分からなくなります。

――うろたえたりこわがったりしてはいかん。一番大きな欠点を克服することから始めて、それから一つずつ弱点に打ち勝っていくのじゃ。まずは理屈よりもしっかり腰を据えて、一番深刻で、目につきやすい欠点を滅ぼすことから始めるのがよい。太い根っこが枯れ始めると、周りの細い根っこもじきに枯れていくもので、それと同じ事じゃ。もっとも大きな弱点を滅ぼせば、それといっしょにほかの小さな欠点も絶えてしまうじゃろう。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_どうやって霊的弱点から逃れるか.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



どうやって霊的弱点から逃れるか

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

Considering my faults, 
I do not know what to do

――聖山アトスのパイシイとの対話――

――自分の欠点のことを考えると、どうしたらいいか分からなくなります。

――うろたえたりこわがったりしてはいかん。一番大きな欠点を克服することから始めて、それから一つずつ弱点に打ち勝っていくのじゃ。まずは理屈よりもしっかり腰を据えて、一番深刻で、目につきやすい欠点を滅ぼすことから始めるのがよい。太い根っこが枯れ始めると、周りの細い根っこもじきに枯れていくもので、それと同じ事じゃ。もっとも大きな弱点を滅ぼせば、それといっしょにほかの小さな欠点も絶えてしまうじゃろう。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_どうやって霊的弱点から逃れるか.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



キリストはほんとうに生き返ったんですか

Was Jesus Really Resurrected?

ハリストスの復活は仮死状態から蘇生したのとは違います。三日目によみがえったということは、完全に死んでから、ふたたび生命を得たということです。しかも、お弟子さんたちの隠れている部屋に、閉ざされた扉を通じて入って来れるような不思議な「新しい体」をもってよみがえりました。それでも幽霊ではないということを教えるために、お弟子さんたちの前でお魚をむしゃむしゃ食べたり、十字架に釘づけられた傷を見せて、さわって見なさいと命じたりしました。

ほんとうに不思議なことです。でも、これを信じなければキリスト教ではなくなります。このハリストスの復活を信じてこそ、終末の時の全人類の復活への信仰も、私たち一人一人の洗礼による、また悔い改めによるよみがえりへの信仰も確かなものとされるのです。


<<>>



どうやって霊的弱点から逃れるか

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

Q&A

I tell myself to my every day, “Let’s start praying from tomorrow and am going to change myself.” But everything is as it is

――聖山アトスのパイシイとの対話――

――長老様、私は毎日自分に言い聞かせております、「さあ、明日から祈りを始めて自分を改めよう」。でも何もかもが今までのままです。

――神の前に立ち、こう言うことじゃ。「神のお力によって私は務め改めます」とな。そうしたら神はお助けくださるよ。お前さんが自分を改めたいと思うのは、つまり、助けを得るということと同じじゃ。神に助けを求める――すると神はお前さんに手をさしのべてくださるじゃろう。お前さんは、自分に出来るほんのわずかなことをする、そうやって前に進んで行く。赤ん坊が自分の手で大きな石を動かそうとしているのを見たら、誰でも飛んで行って助けてやるじゃろう、そう思わんかの?神も同じで、お前さんの小さな努力をご覧になれば、勝利する事が出来るよう助けてくださるのじゃよ。

自分を改めようと何の努力もしないで「わがハリストスよ、私の中にこのような欠点があります。あなたはそれを取りのけることがお出来になるでしょう。どうぞ私を逃れさせてください」と言う人間がおるが、神がどうやって助けることが出来るじゃろう?神が助けるには、まず人が努力する必要があるのじゃよ。神が助けてくださるためには、人が自分でしなければならないいくつかの事柄があってな。自分を助けたいと望んでもいない者が、助けを受けることなどありはせんのじゃよ。

わしらは、時には不思議な方法で神の恵みと贈り物とを受けることがある。戦いもしないで何がしかの徳を得ることが出来て、聖人になれるかもしれんなどとさえ思いがちじゃ。しかし、神が何かをお与えになるには、わしらは努力しなければいかん。それなしにどうやって神が何かを与えることが出来るかの?トロパリで歌われているではないか、「不毛の荒野を耕せり」と。神が雨を賜い、土を柔らかくする。けれどもわしらは自分の畑を「耕さなければ」ならんのじゃよ。土地の準備が出来ても、鍬を入れて種をまかなければ何にもならん。種をまいたぶんだけ刈り取ることが出来る。耕さなければどうして種をまくことが出来るかの?もし種をまかなければ、どうして刈り取ることが出来る?それだから、神が何をお出来になるかと尋ねるのではなく、自分が何を出来るのか、それを自分に問わねばならん。ハリストスという名の銀行は、そりゃあ利息が高いのじゃよ。だがこの銀行にわしらが口座を持たなかったら、どうやってそこから金を受け取ることが出来るじゃろう?

<>


「生まれ変わり」はあるんですか

Is there a “reincarnation”

人間が死んで次の世では犬や猫に生まれ変わるというのは、仏教の輪廻の考え方です。キリスト教にはそういう考え方はありません。死後、人はしばらく眠りにつきます(永眠)が、やがて、ハリストスがこの世に再びやってくるとき、新しい体を与えられて復活し、生前の生き方に応じて裁かれます。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com


http://nagoya-orthodox.com/ja/中学生の質問にお答え.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



正教会: 開祖は誰ですか – いつ頃から始まったのですか – どこで始まったのですか 

Questions about Eastern Orthodox Church

もしキリスト教が、誰かが「あたま」で考え出した「教え」をもとにした宗教なら、その誰かが「開祖」ということになりますが、キリスト教はそういうものではありません。旧約聖書に伝えられているように、神さまと人とは長い交わりの歴史を持ちます。それは、人間は本来とてもステキなものとして神さまに創造されたのに、神さまに背いたために、そのせっかくのステキさを失ってしまい、惨めな姿でこの世をさまよう歴史、そしてその人間に対する、神さまの愛による怒りや悲しみや赦しの歴史です。

そんな歴史の中で、人間は、神さまの愛に応えようと、神さまの怒りをなだめようと、神さまに赦していただこうと、神さまに礼拝する(祈る)ことを始めました。キリスト教はその時にすでに始まっていたと言ってもいいのです。

ただ、神さまと人間との関係は、イイスス·ハリストス(イエス·キリストの日本正教会での呼び方。日本のキリスト教の教派の採用する呼び方の中で、いちばんもともとのギリシャ語の発音に近いんですよ)が、今日のイスラエルのベツレヘムという町に生まれた時に大きく変わりました。イイススは成長し、三十歳の頃、人々に教えを宣べはじめました。不思議な力でたくさんの病人たちを癒しました。そのころユダヤの地を支配していたローマ帝国の圧制に苦しんでいた民衆は、イイススを「救い主」として歓迎しました。やがてユダヤの宗教的指導者たちは、ますます人気が高くなるイイススによって、自分たちの権威が失われてしまうことを恐れ、ついに、イイススを捕らえ、十字架にかけて殺してしまいました。
埋葬されて三日目に、女のお弟子さんたちがお墓に行くと、そこは空っぽで、天使が「主はよみがえった」と告げました。やがて、お弟子たちの所に復活したイイススが現れました。その時、お弟子さんたちは、イイススが「神の子」、真の「救い主」(ハリストス)であることを、心の底から確信したのです。

イイススは四十日間お弟子さんたちとともに生活を共にし、ついに天使たちにともなわれて、父なる神のもとに昇りました(「昇天」)。しかし、イイススは、お弟子さんたちにあらかじめ約束していたとおり、聖神(「聖霊」の日本正教会訳)を天の父なる神のもとから、地上にお遣わしになりました。この聖神を受けて、お弟子さんたちの内に、どんな困難にも負けない力と知恵と愛があふれました。そしてお弟子さんたちは、「神の子」が、私たち人間のために十字架で死に、なんと三日目に復活したこと、これを信じる者に、罪の赦しと永遠の生命を、言い換えれば「人間のよみがえり」を約束してくださったという「福音」(喜びの知らせ)を、世界中に伝える「使徒」となりました。

その時、今日まで続く「教会」が、ハッキリ目に見えるかたちで存在しはじめたと言っていいでしょう。「教会」はこの使徒の働きを受けついでいます。
この出来事が起きたのは紀元三十年頃といわれています。

キリスト教とは、使徒たちが世界各地に設立した教会が、今日まで宣べ伝え続けている「福音」であり、この福音を信じ「洗礼」を受け教会のメンバーとなった信徒たちが集う「聖体礼儀」(カトリックでは「ミサ」、プロテスタントでは「聖餐式」と呼びます)という礼拝を中心とした祈りの生活であり、そこで教えられる聖書にもとづく教えであり、その教えによって導かれる「愛」を最も大切なものとする生活のあり方です。

このような教会のあり方をしっかりと守り、多くの人々を教会に集め、いつ起きるか神さまだけしか知らない「ハリストスの再臨」*に備えさせること、これがキリスト教(教会)の目的です。

*ハリストスの再臨 ハリストスが再びこの世に来られ、全ての死者を復活させ、その時生きている人々とともに、生前の生き方に従って一人一人を永遠の生命か、永遠の地獄かに裁きます(最後の審判)。

<>



どうやって霊的弱点から逃れるか

Why do I always eat too much?

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

――聖山アトスのパイシイとの対話――

――長老様、どうして私はいつも食べ過ぎてしまうのでしょう。

――なぜならそこがお前さんの弱点だからじゃよ。悪魔は守りの弱いところをまず攻めるもので、守りの固い場所には近づかないものだからの。悪魔はまたこうも言う。「もしここを攻め落とすことが出来たら、ほかのところも少しずつ奪い取っていこう」とな。だから弱点はしっかり固める必要があるのじゃよ。

<>



どうやって霊的弱点から逃れるか

私は戦うのがつらいのです

I am afraid to fight

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

――聖山アトスのパイシイとの対話――

――長老様、私は戦うのがつらいのです。

――指からとげを抜き取るのは痛いものじゃが、自分から欠点を引っ張り出すのはそれよりもっと痛いものじゃよ。覚えておくがいいよ。人が誘惑を切り捨てようと努力している時、誘惑は人の前につまずきの石を置くものだから、人はものすごく苦しむ。それこそ悪魔憑きみたいに苦しむが、それは悪魔と戦っているからなのじゃ。けれどもやがて悪魔憑きは自由になるのじゃ。

自分を浄めるというのは、ボタンを押すように簡単にはいかんものでな。自動的に、何の苦労もなしに得られるものではない。木を切り倒すのと同じで、霊的欠点もすぐには切り捨てることが出来ん。のこぎりで幹を切るのに長いことかかるではないかの。しかもそれでおしまいではないのじゃよ。丸太から家具を作るのに、どれだけ苦労しなければならんことか!まず丸太を切って、板にして、職人が時間をかけて磨いて、それから家具にしていく。

――もし、そのような努力が必要だと私が思わなかったら?

――その時は、切り株のままでいるじゃろう。そしてしまいには火に投げ込まれるじゃろうな。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_どうやって霊的弱点から逃れるか.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



天国や地獄はあるんですか

Is there Heaven or hell?

キリスト教でいう天国を、なにか別世界にある特別な場所と考えてはなりません。天国は「神の国」を言い換えたもので、神さまと人間が直接ふれあい、人々が神さまの愛のもとに集う生き方そのものです。その神の国は、教会という形ですでに始まり、たえず成長していますが、完成するのはイイスス·ハリストスの再臨の時です。その時、世界は全く新しい輝きに満ちたものとして造り替えられ、最後の審判で祝福された人たちは「永遠の生命」のあふれる「神の国」へ入れられます。

地獄も同様です。神さまに背き、人を憎んだり、争ったり、ひとりぼっちの世界に閉じこもったりしている生き方そのものが地獄です。生きている間に、そういう自分勝手な、愛を忘れた生活をしてきた人たちは、最後の審判の時、今度は目に見えるかたちで、神さまが示される「永遠の地獄」に入らなければならなくなります。

<>



なぜみんな十字架を持っているのですか

Why does everyone have a Cross?

目に見えない神の働きを、目に見えるかたちや動作で象徴するものは、教会にはたくさんあります。十字架も神の子「ハリストス」の救いの象徴ですし、十字を胸に手で描くのも、ハリストスへの信仰の象徴です。他にも数え切れないほどの象徴が教会にはあります。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/中学生の質問にお答え.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



お祈りの仕方を教えてください 

一日何回祈りをささげるのですか

How to pray and how many times?

教会で日曜日に信徒が集まって行う「聖体礼儀」というお祈り(礼拝)が中心です。ここでは、神さまを讃え、感謝し、世界中の人々の平安を祈り、パンとぶどう酒をささげ、神さまのお力によって、パンとぶどう酒そのままでありながら「ハリストスの体と血」に変化した「聖体血」を、信徒みんなで分かち合って食べます。

家庭でのお祈りも、朝晩食事の前などに行われます。

修道院では、毎日、晩課、晩堂課、夜半課、早課、一時課、三時課、六時課、聖体礼儀、九時課が繰り返されます。


<>


教会案内

(各教会の案内は教団ホームページにリンクしています。)

https://www.orthodox-sendai.com/churches

Eastern Orthodox Christian Churches in Japan

<>




日本での正教伝道は江戸末期1861年

Orthodox missionary work in Japan

日本での正教伝道は江戸末期1861年(文久元年)、函館のロシア領事館付司祭として来日した聖ニコライ(イオアン·デミトリヴィチ·カサートキン)に始まる。初代の信徒は東北出身者が多く、そのため東北北海道の地には正教会が数多く点在している。正教会は、ギリシャ正教、ロシア正教会などとも呼ばれるが、東方正教会の流れをくむキリスト教会である。

ソース:

https://www.orthodox-sendai.com

ORTHODOX SENDAI

日本ハリストス正教会教団 

東日本主教々区宗務局

<>



旧約聖書=イエス·キリスト登場前。 新約聖書=イエス·キリスト登場後

Holy Bible: Old and New Testament

新約聖書=イエス·キリスト登場後

聖書の原典は、旧約聖書がヘブライ語で、新約聖書がギリシャ語で書かれてる。

なので、「英語聖書」とか「日本語聖書」というのは、正確には「各国語に翻訳された聖書」。

ソース:

http://orthodoxchurchinjapan.blogspot.com

日本正教会 ORTHODOX CHURCH IN JAPAN

<>



正教の霊的勧告集

Orthodox spiritual recommendation collection

謙遜は凡(およそ)の徳行の基礎なり。
謙遜とは啻(ただ)に言行に於いてのみならず凡の動作及び口気に於いて謙遜なるを指す。
或る者に対して謙遜にして他の者に対して倨傲なるなかれ。
その友たると敵たると貴人たると賎人たるとを問わず
凡の人に対して謙遜なれ。
真の謙遜とは斯かる謙遜を指す。(金口イオアン)

愛のあるその所にのみ忍耐はあり…
愛を身に纏いたる人に在りて一つの難事なし、
愛は困難を知らず。(金口イオアン)

神(しん)の一なるとは内心の一致を指す…
ただ和平を守るに止まらず
汝らの間に神(しん)の一、心の結合、一つの神、一つの霊のあらん事を務めよ。
老若、貧富、男女の別なく
皆牧者の指導のもとに在りてはハリストスを中心として一とならん。
一なる神の神(しん)は汝ら衆人を包容す
故に、汝らは神の神(しん)を自己に保有するを務めよ。
汝らが和平の繋ぎと聖なる愛を保有すべきは
聖なる教会の体の一なる事がこれを要求す。
各人に霊の生命と活動を与ふる神(しん)の一なる事がこれを要求す。
凡その人が嗣ぐに招かれたる天の福楽が一なる事がこれを要求す。
贖罪主救主の一なる事がこれを要求す。
新生命に転生せしむる洗礼の一なる事がこれを要求す。
凡その人を一つの愛にて包容し一つの全能力を以て治め
一つの摂理を以て護り
在らざる所なく満たざる所なき神造主、摂理者、父の一体なることがこれを要求す。
(主教フェオファン)

敬虔の認識は謙遜と温柔の認識なり。
謙遜はハリストスに則るもの、
傲慢、自尊、破廉恥は悪魔に則るものなり。
ハリストスに則れ、アンティハリストスに則るなかれ。
神に則れ、神の敵に則るなかれ。
慈愛者に則れ、残忍者に則るなかれ。
愛人者に則れ、疾人者に則るなかれ。
婚宴に入るものに則れ、暗所に立つ者に則るなかれ。
妄りに兄弟に命令するなかれ、
汝が他人の罪の軛(くびき)を己の頭に加えざらんがためなり。
(主教フェオファン)

聖使徒パウェルは汝らが啻(ただ)に救いの道を聞くのみならず
恐懼(おそれ)と戦慄(おののき)をもってその救いを成すを希望す。
蓋(けだし)、その救いのために恐懼せざる者にありて
一の尊貴なる及び偉大なる事を行うを得ざればなり。
単に恐懼をもってのみならず、恐懼の高度なる戦慄をもってその救いを成せ。
…パウェルはかかる恐懼を有したり、故に彼は言えり
「他人を教えて、自ら捨てらるる者とならんことを恐る(コリンフ前書9:27)」

如何にしてこの恐懼は生まるるか?
もし我等が、
神が何処にもあり、凡そのことを聞き、凡そのことを見、
啻(ただ)に言行のみならず心の底、霊魂の奥に起こりし一切を洞察すと
思念せんには
その時に於いてこの恐懼は生まるるを得。(金口イオアン)

我等はここ地上に安息を求めざらん
我等の居所のあるかしこに於いて光栄なる者とならんことを望まん。(金口イオアン)「我等の居所は天にあり(フィリップ3:20)

キリスト教の慈愛は
他人の悪行及び悪癖を寛過せざるとともに
深くその慈愛を人の心の奥に徹底せしめて何人をも排斥せず。
慈愛の模範は
子を慈育する母の行為、これなり。
…キリスト教の真正の精神の満てたる顔は
筆紙の形容し得ざる無量の慈愛に輝く。
この顔は甘き平和を宿し、衆人を慕わしむ。
…芳しき薔薇の香りは薔薇より発するが如く
慈愛はハリストス·イイススに在る精神及び生活から出ず。 (主教フェオファン)

汝らは地に属するものを求むべからず。 (金口イオアン)

汝らは選を蒙りし者(選ばれた者)
汝らは聖なる者
汝らは愛せらるる者なり
かかる(このような)称号を思うときは
熱心の火の加わること幾ばくぞ。
汝らは選を蒙りし者と名付けらる、
世に人は多く
汝らのみに非ず
しかるに神は多くの人の内より汝らを選べり
神は汝らがその選びし者を辱めざるを期す
ゆえに汝らは聖なる者なり。(主教フェオファン)

父が子を慈しむが如く
汝ら互いに慈しまざるべからず。 (金口イオアン)

慈心、仁心の者は己を忘る
而して(だから)、自然に謙遜なり。 (主教フェオファン)

「温柔」
何の反対にも乱されざる又何人をも乱さざる多くの徳を包括する善行なり

「恒忍」
あらゆる不快、冤罪、攻撃、侮辱、迫害、駆逐を
不断不変に忍耐するをいう。 (主教フェオファン)

仁愛は謙遜を生む。蓋し仁愛の者は謙遜なり。
謙遜より温柔生まる。蓋し傲慢の者は怒りやすし。
温柔より恒忍生まる。蓋し恒忍は寛大なり。 (福フェオフィラクト)

『汝らが凡そなす所のこと、
或いは言葉、或いは行い、
皆主イイスス·ハリストスの名によりてこれを為し、
彼によりて神父(かみちち)に感謝せよ』(コロサイ3:17)

皆主の名によって行うとは
彼に喜ばるるがために
一切を彼の光栄に向け…
一切を彼にささぐる祈祷にて囲み
祈祷をもって始め祈祷をもって終わり
業を始むるにあたりて祝福を求め
業を行う間にたすけを求め
業を終わるにあたりて感謝をささぐるを、いう。(主教フェオファン)

ハリストスの名の呼ばるるところに
何の醜悪なるもの不潔なるものの存するを見ず
食わんか飲まんか(霊務を)開始せんか
万事を神の名において
即ち神の助けを呼びて行え
まず神に祈りて業につけ、汝に悪結果なからん
万事を主の名によりて行え、汝に良き成績あらん
神の名をもって印せば一切の業は幸福の結果を来す。
(金口イオアン)

霊の目を閉じ罪の眠りにつくは
性(人間本性)のいたすところに非ずして自ら求むるなり
聖使徒は訓諭す
「けい醒(覚醒)謹慎せよ(テサロニケ前5:6)」と。
(金口イオアン)

神は滅ぼすが為に我等を召さず
救うが為に召せり 即ち
「我等の為にその子をたまえり」(イオアン3-16)
神はその子を賜うまでに我等の救いを望み
しかも単にその子を賜いしに非ずして
死において賜えり
人よ
その子さえも賜いて惜しまざる神に信頼して
失望するなかれ
現世の艱難を恐るるなかれ
汝を救い汝を地獄より奪うが為に独生の子を賜いし者は
如何ぞ汝の為に他の何物をも惜しまんや
…ゆえに
我等は彼を愛せん
然るに、我等を愛するその者を愛せざらんには
極めて無知なり。
(金口イオアン)

我等は如何にしてその身を神に献ぐるを得るか
眼は悪しきものを見ざれ(見るな)、これ献身なり
舌は恥ずべき事を言わざれ、これ献祭なり
手は不法のことを行なわざれ、これ燔祭なり
然れども、これのみにて足るに非ず
我等はすすんで善を行わざるべからず
即ち手は慈善を行い、口は敵を祝福し、
耳は神の言葉を聞くに敏からざるべからず (金口イオアン)

ハリスティアニンの智識に限界なし…
神(しん、霊)とは信者の潔き心に置かるる
聖神(聖霊)よりの知恵および黙示の恩賜を指す…
ハリスティアニンの本然の智識は今に至るまで一つの本源を有す
即ち、知恵の神(しん)これなり (主教フェオファン)

神(しん、=霊)は一切を啓示し
神の秘密を説明す
神の秘密を知ることは
「神の深きをも察する」(コリンフ前2:10)
一つの神(しん)に属す (金口イオアン)

一切を、
即ち、大なることも小なることも主に求めよ
凡そのことに於いて主に仰ぎ
たとえ自ら労するも
彼の手から来るものとして一切を受けよ (主教フェオファン)

心の奥より祈れ
舌端をもって(口先だけで)祈祷を唱ふるなかれ
何事を祈るも
祈るの必要を深く心に認め
その求むる所を主より受くるを確信せよ (主教フェオファン)

使徒パウェルは祈祷において
ただ求むるのみならず
その受けたるところを感謝するを勧む
蓋、過去のことを感謝することを知らざる者は
如何ぞ将来のことを求むる知らん
斯(か)く凡そのことを感謝し
悲しきことのためにも感謝せよ (金口イオアン)

祈り、特に司祭職(主教、司祭)の祈りの大切さについて
金口イオアンは「司祭職について」の中で。

彼は全世界の番兵として立ち、
凡その人の作業(行っていること)を知り
生者を知るのみならず死者をも知る
世界は彼が配慮に託せられ
彼は慈父の配慮を持って世界を包容す
彼は戦争の息止(休戦や停戦)
擾乱の鎮定、天下の泰平
諸民の幸福、個人及び社会の病難の断絶を祈る…
彼はかかる祈祷のためにいかなる心情を有すべきか
言うまでもなく、
モイセイもしくはイリヤ以上の心情を有せざるべからず。 (金口イオアン)

悪魔は祈祷の功徳を知るゆえに
力を極めて
祈祷するものを誘惑せんとす。 (金口イオアン)

ハリスティアニン(クリスチャン)の全生涯は
祈祷をもって一貫せざるべからず
祈祷の奥義は神を愛するに存す
新郎を愛する新婦は
その心に寸時も彼を忘れざるが如く
愛において神に結ばれたる人は
神とともに離れず
主につくものは主と一神(しん·霊)となるなり (主教フェオファン)

「その求むる所を告げて」(フィリップ4:6)祈れ
即ち、その求むるところを有体(ありてい、ありのまま)に言え
敢えて、多言美語を要せず…
心に思うところを自己の言葉にて告白せよ
かかる告白は
神に対する汝の信仰を証明す (主教フェオファン)

祈祷、ことに常住不断の祈祷を
これを経験せざる者に語り教ふるは
生得(うまれつきの)の「こ者」(目の不自由な人)に太陽の光線を語り
蜜を食せざる者にその味を語ると一般(おなじ)なり、
表信者克肖なるメレティの言うが如く
「祈祷は教師を要せずただ勉強熱心(熱心に務める)を要す
而して、その教師は祈祷する者に祈祷を与える神なり」 (「神の役者」の著者)

己を祈祷に強いよ
しからば主は汝の熱心を見て
その求むるところの祈祷を汝に与えん (聖大マカリー)

汝は
食はんか飲まんか座せんか労せんか旅行せんか
(食べるときも、飲むときも…)
常に「主イイスス·ハリストス神の子や我罪人を憐れみ給え」と唱えよ
主イイスス·ハリストスの名は汝の心の奥に臨み
汝の心に悪をまく蛇を鎮め
汝の霊魂を救はん
汝の心は主を呑み、主は汝の心を呑み
二つのものが一つとならん為に
常に主イイススの名を呼べ (金口イオアン)

汝はイイススの名の記憶を
その呼吸の如くに行え (階梯者聖イオアン)

汝もしその思念の悪しきを恥じ魂の覚醒を願はば
主イイススに向かって祈祷をその呼吸の如く行なふべし
しからば数日ならずして
その希望の達せられたるを見ん (イエルサリムの聖イシヒイ)

汝はその心その舌にて
立つも歩むも座すも床に横たはるも
何事を行ふも常に
「主イイスス·ハリストス神の子や我罪人を憐れみたまへ」と
唱へよ
しからば、このことを経験せし者が知る如く
大いなる慰安と喜悦とを得ん (テサロニケの聖シメオン)

もし汝、修士、ことに神品の修士が
自己の本分を忘れて兄弟の欠点を詮索することを快とせば
汝は自己の心を忘れ
自己の精舎(修行のための家)を知らず
真理より逸して岐路に迷い道ならぬ道を歩む者なり
しからば、遂にいかなる終点に到達すべきか (シナイの克肖者ニール)

ただ口に祈祷を唱ふるのみにては完全には非ず
神は人の哀情を察す
ゆえに口の祈祷を心の祈祷に合わせざる修士は
(修道士だけではなく私たちもですよ)
修士に非ずして黒き灰燼なり
ハリストスを心に印せざる修士はイイススの祈祷を解せず
書籍は祈祷を教えず、ただ祈祷の途を示すのみ (サーロフの聖セラフィム)

目を高く神に注げ
爾(なんじ)と、地に属する者と
何の関係かある
世が造りしものを、望むなかれ (克肖者ニール)

爾の心に
不潔の情欲が燃ゆるも
肉欲が興奮するも
悪魔の誘惑が爾を攻めるとも
信と望と忍耐と覚醒と祈祷と讃美と読書(神の言葉と聖師父の書)
ことにイイスス·ハリストスの名の称名とをもって
これらに勝て (克肖者ニール)

主は浮きたる(うわついた)高き声に耳を傾けず、
モイセイの嘆息を容れし如く
言ふべからざる衷心の嘆息に耳を傾く (克肖者ニール)

兄弟よ、
嘆息、涙、及び堅き望みをもって
人を愛する我等の主イイスス·ハリストスの
見えざる足を抱くをつとめよ (克肖者ニール)

たえず神を心に記せ
しからば爾の心は天とならん
斎を武器となし、祈祷を城壁となし
涙を浴水となせ…
天に参ずる者として
聖堂に参ぜよ
聖堂にありて、地に属することを
何事も言うなかれ、思うなかれ。 (克肖者ニール)

汝、もし手を労働に動かさば
舌は歌い、心は祈れ
神は我等が常に心に神を記するを要求す (克肖者ニール)

寸時も心に祈祷を絶つなかれ
起つも、座するも、歩むも、食するも、労するも
衆人雑踏の中に立つも
「主イイスス·ハリストス神の子や我罪人を憐れみ給え」との
簡単なる祈祷を心に絶つなかれ
信と愛とをもってするこの祈祷の熱心なる頻繁の黙誦は
汝の智の邪想を払い、汝の心の邪念を鎮む (若き日サロフのセラフィムに師事した老在俗司祭アウラミイ)

この不断の祈祷の尊き実を得んと欲せば
大いに力行(努力)するを要す
蓋し、天国は力行するものに与えられ力行するものこれを奪えばなり
されど力行するは汝自身にして
汝の他何人(なんびと)も汝のために力行するを得ず
(若き日サロフのセラフィムに師事した老在俗司祭アウラミイ)

「主イイスス·ハリストス神の子や、我罪人を憐れみ給え」の祈祷は
汝が霊魂の呼吸であれ
しからば、イイススは汝の智と心より脱せざらん
イイススとともにせば一切は汝のために幸福と変じ
凶事も汝のために天のマンナとならん
(長司祭アウラミイ)

世に、聖詠(詩編)のごとく神を讃美し霊益を与ふる書は他になし
我等は聖詠をもって天使とともに神を讃美し
悪鬼を駆り(かり、追い出すこと)
王侯及び全世界のために神に祈る…
聖詠は大海に似たり
海の水は汲めども尽きざるが如く
聖詠の霊益は尽きず
(聖大ワシリイ)

神よ速やかに我を救へ、主よ速やかに我を助けたまへ
(第69聖詠、70詩編)
この句は自己を無力のものとなし
神を唯一の救助者となすの承認
すなわち神はこの句をもって祈る者に助力を与え
そのものを凡その災害より救うとの信仰とのぞみを含蓄す
この句をもってたえず神を呼ぶ者は
神を眼前にみ、神を慈父の如くに感じ
その庇護のもとに立つ
(克肖者イオアン·カシアン)

汝らは飲酒の悪癖が肉体を滅ぼすのみならず霊魂を滅ぼすを知れ
…飲酒の如く不和、仇怨、罵詈、汚念、放恣その他の悪因となるものはなし
ゆえに金口イオアンもその説教に言へり
「沈湎者(ちんめんしゃ;酒色におぼれる人)は
最も悪魔に喜ばれるものなりと。
(ザドンスクの聖ティーホン)

一定の時においてのみ伝道するなかれ
平安の時、もしくは聖堂にあるときのみならず
危難に臨むも獄中につながるるも
縲紲(るいせつ、縛り縄)に在るも
死を宣告せらるるも、伝道せよ
およそ、便宜ある時、機会あるときは
伝道するに時を得たるなり
(金口イオアン)

預言者及び使徒らによって我等に与えられたる聖書は神の真実の言葉なり
天の父はこの聖書をもって不当なる我等に談話す
故にハリスティアニンよ
福音書及び他の聖書を読む神の役者(教役者)の訓戒をきけ
またみずから聖書をひもときて
至上の神がその言葉をもって汝に語るところを読み、思念し、会得せよ
我等が神に祈祷するは神にむかって談話するものなり
我等が聖書を読むは
我等と談話し我等の願いに答ふる神の言葉を聞くものなり
(ザドンスクの聖ティーホン)

我に従はんと欲する者は己を捨てその十字架を負いて我に従え (マルコ8:34)
十字架とはあらゆる悲愁を甘受する決意を指す
神の道は日々の十字架なり
安逸の道を行きて天に達せし者なし
汝らは安逸の道の極まるところを知る

安逸の時に喜び、悲愁の時に顔をしかめるは汝のすべきことに非ず
天国の道は今も昔も十字架と死を以て通ぜらる
主は言う
現世において「その生命を得る者はこれを失い、
我がためにその命を失う者はこれを得ん」(マトフェイ10:39)
安逸の道を歩む者はその命を失い
十字架の道を歩む者はこれを得ん。 (シリヤのイサアク)

我に従はんと欲する者は己を捨てその十字架を負いて我に従え (マルコ8:34)
即ち、主はかく言う
我が門徒たらんと欲する者は我にしたがいておよその艱難を覚悟せよ
我は主、汝らは僕なり
故に、汝らはその主に従え
我は師、汝らは弟子なり
故に、汝らはその師に従え
我は天国への導き手、汝らは随行者なり
故に、汝らもし彼処に至らんと欲せば、その導き手に従え
(ザドンスクの聖ティーホン)

己を捨てるとは何のことぞ
汝の邪念を切断し、汝の心の喜ぶところを行うなかれ
己に善きことを疎み、悪を愛さざれ
己を敵視し他人を敵視するなかれ
他人を怒らず己を怒れ
汝を迫害し汝を陵辱するときは悲しむなかれ
旧き人即ち霊魂を害するおよその邪念を切断せよ…
このことは難事なるか
然り、難事なり。されど必要なり。
(ザドンスクの聖ティーホン)

十字架を背負いてとは何のことぞ
神の名のためにあらゆる艱難を甘受し死をも辞せざるを言う
たとえいかに苦痛なるも怨言せず
大胆にあらゆる苦難を忍ぶを言う
(ザドンスクの聖ティーホン)

ハリストスに従うとは何のことぞ
真実に痛悔し痛悔の実を結び
いかなる困難に遭遇するも
我等のために苦しみしハリストスを思いて
神の名のためにあらゆる辛酸をしのぶを言う (ザドンスクの聖ティーホン)

「およそ敬虔を以てハリストス·イイススにありて
生をわたらんと欲する者はみな窘逐せられん」(ティモフェイ後書3:12)

ハリストス·イイススにありて敬虔に生をわたらんとする者は
地上にその楽園を有せず天に楽園を有す
血は傷害窘逐の外何物をも彼らに与えず
何となれば、ハリストスに従う者の主眼とするところと
地のために生活し地上にその楽園を求める者の主眼とする所とは
全く相異ればなり
この二種の人は氷炭相容れず
地の人は天を求める者を窘逐す
しかもこれ神の僕のために幸福なり
神の仁愛はこれらの窘逐を彼らのために永遠の福楽に変ず
ゆえに彼らは確信と喜悦を以て神に光栄あれと呼ぶを得。
(主教フェオファン)

敬虔に生をわたらんと望む者は窘逐(迫害)せられん
使徒は窘逐なる語に悲哀憂苦の意を表せり
善道を歩む者にありて悲哀憂苦は免れ難し
彼は狭き艱難の道をたどる
蓋し言えるあり
「世にありて汝ら艱難をうけん」(イオアン16:33)
「それ人の世にあるは戦闘にあるが如くならん」(イオフ7:1)
悪と闘う人にありて悲哀なきを得ず
故に聖なる教会に労役する神の役者は
もとより安楽を求むべからず
現在の時は
戦闘、憂苦、愁嘆の時なり
(金口イオアン)

熱涙の祈祷は罪を清めるのみならず、
肉体の疾患及び病弱を癒し、人の全身を革新す
一言を以て言えば、人を再生せしむ。
ああ、祈祷の賜物はいかに尊とからずや
(クロンシュタットの聖イオアン神父)

「汝、苦をしのぶこと、イイスス·ハリストスのよき軍士の如くせよ」
(ティモフェイ後2:3)

福音宣教の働きに任じ
この働きのために受ける艱難を
ハリストスのよき軍士として耐えよ
汝は誰に属する軍士か心に考え
勇敢に軍士たるの働きを尽くせ
(フェオドリト)

聖福音書の戒めに従いて生活する者は
実に世に憎まれて在り
世は彼等を憎むも神は彼等を愛す
世は彼等を疎んずるも神は彼等を選ぶ
神に愛せらるると、世に愛せらるるといずれが優るか
全世界が我を憎まんと欲せばそのなすに任さん
ひとり神は我を愛しその慈愛において我を保護せん
主よ汝の慈愛は我に善し
「我にありては神に近づくは善し(聖詠72)
我はひとり爾(なんじ)及び爾の愛のほか
地にあり天にある何者をも欲せず
(ザドンスクの聖ティーホン)

もし汝は狭く苦しき道を歩むをハリストスに約束せしならば
汝の腹をせめよ
腹を喜ばし、腹を膨張せしめて
汝はその約束を捨つ
沈倫に導く飽食の道は広くしてこれに入る者多し
されど
いのちに導く節制の門は狭くその道は細くして
これを得るもの少なし
(階梯者イオアン)

狭き道に横たわるものは
十字架、苦難、忍耐、節制、献身、服従なり
広き道に横たわるものは
神の法の軽慢、放恣の生活、自愛、虚栄、讐敵、淫情、酒宴その他なり
(ザドンスクの聖ティーホン)

ハリストスは狭き道を歩めり
彼の心服者は彼に随従し
愛と忍耐と温柔と謙遜を以て彼の足跡をたどる
広き道には闇の王が立つ
現世のために労する者は
この道を通りて闇の王に尾す
人よ、汝はいずれの道を好むか?
(ザドンスクの聖ティーホン)

(神の役者よ)汝を窘逐(迫害)する者あるも
汝は窘逐(迫害)するなかれ
汝を陵辱する者あるも
汝は陵辱するなかれ
汝を讒詛する者あるも
汝は讒詛するなかれ
温柔なれ、しこうして悪に報いるに悪を以てするなかれ
(ザドンスクの聖ティーホン)


ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/正教の霊的勧告集.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

<>



平安にして出ずべし

聖体礼儀を生きる

About Holy Communion and Divine Liturgy

(「福音と世界」2000年5月号に投稿)

名古屋ハリストス正教会 司祭 ゲオルギイ 松島雄一

正教会の聖体礼儀

クリスチャンは、「新たなる神の民」の仕事(リトゥルギア)として、ハリストスの死と復活を、そしてその「よみがえりの生命」を自らの生活の場で、自らの生活全体によって証しする。使徒たちは、主の死と復活の直接の目撃者としてその体験を証言したが、「見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ20:29)と祝福される私たちは、ハリストスの体·教会にあって聖神(聖霊の日本正教会訳)の溢れの内にそれらを体験し、世に証しする。その体験の中心に、使徒たちから今日まで連綿と伝えられる聖体礼儀(リトゥルギア)がある。

正教会では通常の主日·祭日には、四世紀のコンスタンティノープルの大主教金口イオアンに帰せられる「金口イオアンの聖体礼儀」が行われる。

前半は、新約聖書の誦読·説教を中心とする宣教的な集いであるが、後半は、古代教会では信徒のみに参加が許された「神の民の宴」である。

まずパンとぶどう酒が厳粛な聖歌に伴われ宝座(祭壇)に献げられる。その際の祈祷文は、ハリストスの十字架への自己献祭を記憶し、この自己献祭によって、人間の神への献祭(交わり)が再び可能となったことを告げる。次に教会全体が「ハリストス我らの内に在り」「まことに在り、また永く在らんとす」と、主にある愛を確認し合い、ニケア·コンスタンティノープル信経の歌唱によって信仰の一致、教会の一致を表明。この一致のもとで、感謝とともに、主の救いの業、すなわち籍身(受肉)、最後の晩餐、その死と復活、昇天と再臨が記憶され、いよいよ「聖神の降下の祈願(エピクレシス)」が祈られる。この時、献じられたパンとぶどう酒のハリストスの体血への変化が成就する。次に、この主の体血のもとで、生神女マリヤ、諸聖人、主教、国を司る者、信徒兄弟姉妹、とりわけ苦難にある者たちが記憶される。最後に天主経(主の祈り)が歌唱され、教役者·信徒は主の体血を領聖(聖体拝領)し、私たちが献げた地の実り(パンとぶどう酒)が、私たちが真に神の民にふさわしく生きるための糧(主の体血)として贈り返される。「すでに真の光を見…」と終末的な光栄に与ったことを感謝し、終結の祈りに入る。

神と人と世界との、交わりの回復

この聖体礼儀は、教会の本質の表現でありその体験である。
ハリストスの死と復活の記憶によって、私たちは教会を、主がもたらした「新しさ」·神の国として体験する。主教(もしくは司祭)に司祷され教役者·信徒がそれぞれの役割(リトゥルギア)を果たしつつ進行する奉神礼(リトゥルギア)によって、私たちは教会を、ハリストスに導かれた「神の民」の、この「新しさ」·神の国への歩みとして体験する。そして領聖によって、私たちは教会を、終末に約束される「新しさ」の成就、永遠の生命の溢れる神の国の味わいの先取りとして体験する。

とりわけ領聖では、「肉体となった」「ことば」(ヨハネ1:14)が、現実に、そのお体と血を私たちのために「まことの食物」「まことの飲み物」(ヨハネ6:55)としてさし出され、神の救いの本質、その「新しさ」があらわにされる。
すなわち、領聖を通じて人は再び神との交わりを回復する。私たちの食物·私たちの飲み物が神の体血となり、神の体血が私たちの食物·飲み物となり、私たちは神に生かされ、神に感謝し、神を愛し、神のために自己を献げる者となる。
また、領聖を通じて人は再び互いの交わりを回復する。聖体礼儀に集う信徒が一つのパン·一つの爵から主の体血を分かち合うとき、そこには再び三位一体の神の似姿が回復する。即ち、自由と一致が互いを斥け合わずむしろ支え合う、真の「愛の交わり」が体験される。

さらに領聖は私たちに、この物質的世界に新しい光を投げかける。パンとぶどう酒がそのままに神の体と血であることは、人間の神への離反によって失われてしまった、物質的世界への神の祝福の回復である。

これらの三つの回復が人間的努力の功績や報酬としてではなく、神の恵みとして与えられた。この福音を、私たちは領聖という「領ける」行為の中で、神学的思弁や、「信じ込み」や、聖書の使信への単なる承認としてではなく、人間存在全体をあげて関与する現実として「体験」する。

日常生活への派遣

聖体礼儀の終結の部分で、司祭は会衆に向かい「平安にして出ずべし」と宣言する。これは、日常の煩いから奉神礼(典礼)の「美」に逃避してきた者たちがいわば精神安定剤的に陶酔する「宗教的平安·祭儀的神秘」への祝福ではない。逆に、逃避することなく日常生活の中に、この平安、即ち聖体礼儀が証しした神と人、人と人、人と世界の三つの回復(和解·平安)を携えて出てゆき、日常生活そのものをこの「平安」に満たされた神の国の新しさに変容せよという派遣の宣言である。聖体礼儀の中で喜びとともに確信された福音は、それぞれの日常生活の中で平安·和解·回復として具体化されてこそ、真に証しされる。

すなわち、クリスチャンは「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従う」(マルコ8:34)生活を通じて、聖体礼儀で体験した神との交わりを具体化する。あらゆる行為や思いが、神との交わりに向かうものか、そこから離れるものかという眺望のもとで、取捨され、生活の一切が神への献げものとなる。

また、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」という戒命はさらに「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(マタイ22:39)という戒命に具体化される。ハリストス·神の愛によって、できないことを要求し人に自己定罪を強いる律法が廃棄され、人は愛することのできる者へと回復された。この回復を聖体礼儀で体験した私たちは、それぞれの生活の場で実践される愛を通じて、その回復が現実であることを示す。ハリストスの救いは、互いの分かち合いや相互理解への苦い断念とともに「自己性」の中に断片化されてしまっていた「個人」の群れが、再び「私たち」へと集め直されたこととも言えよう。クリスチャンはこの救いを、「互いに愛し合う」(ヨハネ13:34)ことにより、愛の断念の中で呻吟する「この世」に告知する。

また、互いの愛の内に、主の愛を聖体血=パンとぶどう酒として分かち合った私たちは、日々の食べ物を、生きる環境を、互いの身体を、この世界全体を神から贈られた神との交わりの媒体として捉え直さねばならない。人はこの世界を、自らを神とする自己完結的な生き方の「資源」として神から横領し続けてきた。自分の身体を自分の専有物と見なすことから、喫煙、薬物、暴飲暴食、ギャンブル、暴走、性の逸脱等による自己破壊が始まる。世界を人のための独占的な資源と見なすことから、環境破壊が始まる。まさにアダムが神に背いた結果「地はいばらとあざみを生じ」(創世記3:18)不毛となった。しかし今や人が神との交わりを回復することを通じて、「実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んで、…共にうめき産みの苦しみを続けて」(ロマ8:19)きた被造物全体が、その本来の光輝を回復する。パンとぶどう酒という「物」を神の体血として体験する私たちクリスチャンこそ、聖体礼儀でパンとぶどう酒へ示したのと同じ畏れと敬虔な関わり方を、人と物の関わりの中に再構築し、この回復を証しする。

これら一切がクリスチャンのこの世でのリトゥルギア(仕事、務め、奉仕)である。このリトゥルギアは聖体礼儀(リトゥルギア)と不可分にして一体である。

リトゥルギアからリトゥルギアへ

さて、しばしばローマ教会と正教会の違いの一つに「いつ聖変化がいつ起きるか」への理解があげられる。ローマ教会が「これ我が体…」という制定句が唱えられる時とするのに対し、正教会は制定句の後の(ローマ教会のミサにはない)「聖神降下の祈願」(エピクレシス)の時と主張していると受け取られることが多い。しかし、これは正確ではない。正教会の機密(秘跡)論は本来、機密を構成する諸要素の一部分だけを取り上げて機密全体の本質を規定したり、機密の有効性を論じたりはしない。「エピクレシス」の瞬間は確かに決定的な瞬間である。しかし、それはエピクレシスが祈願された瞬間に、今までただのパンとぶどう酒であったものが、ハリストスの体血に魔術的に変化するということではない。むしろエピクレシスの時に、聖変化が「成就」するのである。

聖体礼儀は「父と子と聖神の国は崇め讃めらる」という司祭の高らかな宣言、それに対する会衆の同意から始まる。教会·聖体礼儀という「船」は、この世を離れて、「父と子と聖神の国」、「三位一体の神の国」へ向かって旅立つ。私たちとともに、献祭されたパンとぶどう酒もこの船に乗って、この世にありながらこの世を離れて神の国の次元に高められていく。この上昇の過程そのもの、聖体礼儀全体が聖変化の成就へ向けての過程として、理解されねばならない。

しかし聖体礼儀を真に神の民の唯一の使命(リトゥルギア)として、また教会の世界への証しとして体験する者は、もう一歩踏み込んで言う。聖体礼儀最後の「平安にして出ずべし」によってこの世に派遣され、この世での働き(リトゥルギア)が再開される時から、実は既に次の聖体礼儀での聖変化は準備され始めるのだと。

信徒はその生活全体を奉仕(リトゥルギア)として神に献げ、そのリトゥルギアは聖体礼儀に献げられるパンとぶどう酒に集約され、パンとぶどう酒はこの世のそれぞれの場から集められた信徒全体の祈りと一つになり、教会の献げものとして、神に受け入れられ、祝福され、神·ハリストスの体血として与え返される。与え返された信徒は再び、「平安にして…」とこの世に派遣され、その恵みを一層豊かにこの世でのリトゥルギアの中で育て、再び次の聖体礼儀に献げものとして携える…。聖体礼儀の行われる主日はまさに成就の日、第八日であり同時に開始の日、第一日である。回復された神との交わりとはこの全体であり、決して祭儀的神秘の中での特殊な「霊的体験」ではない。クリスチャンは聖体礼儀を日々生きる。

終わりに

現代正教奉神礼神学の泰斗アレキサンドル·シュメーマン神父はこう言う。

「自らを『聖神の宮』とするためには、ハリストスが昇っていった天に自らも昇ってゆかねばならず、また、この『昇天』こそがこの世への伝道と職務のまさに前提条件である。これは初代教会信徒にとって自明なことだった。その『天』で、彼らは、神の国の新しい生命の溢れに浸された。この『昇天の奉神礼』からこの世へ戻ってきた彼らの顔には、神の国の喜びと平安が輝き、彼らはその真の証人となった。彼らは何の『改革へのプログラム』も『理論』も携えて行かなかった。しかし、彼らが赴く所ではどこでも、神の国の種子は芽を出し、信仰の灯がともされ、生活は変容され、不可能が可能となった。『この光はどこから来るのですか。どこにこの力の源があるのですか』と尋ねられたなら、彼らは確信を持って答えたであろう…」。(”For the Life of the World” SVS Press 1988 p.20)

その答えが「聖体礼儀」であることは言うまでもない。そしてそれは、揺るぎなく、「今もいつも世々に」変わらない、正教会の答えである。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/平安にして出ずべし.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH


<>


教会 Church

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」

2000年前イエス·キリストは人々にこう呼びかけました。当時イエスの国(イスラエル、ユダヤ、ガリラヤと呼ばれる地域)では多くの民衆がローマ帝国の支配に苦しみ、宗教的指導者たちからも軽蔑されて、神に対する信頼も生きる希望も見失っていました。

イエスが確信していたことは、神はすべての人の父であり、父である神は苦しむ人間の姿を見て、胸を痛め、救いに近づいてきてくださる方だ、ということ、そして、神がすべての人の父であるならば、わたしたちはみな兄弟姉妹である、ということでした。どんなに神から程遠いように見える人も、人から差別されたり排斥されている人も、イエスから見れば、神に愛されたかけがえのない子どもであり、イエスの兄弟姉妹でした。イエスはこのことをことばで語っただけでなく、実際の人々との出会い·かかわりの中で伝えました。特に貧しい人、病気の人、心や体に障害を負った人、社会的に蔑視されていた人と出会い、その人々にいやしと希望のメッセージを伝えました。このイエスの活動は、多くの人の心に信頼と希望と愛を呼び覚まし、イエスに従う多くの弟子が集まってきました。

その一方、イエスの活動は当時のユダヤの社会的·宗教的指導者たちの反感を買うことになり、ついにイエスは十字架刑というむごたらしい方法で処刑されてしまいます。しかし、イエスは最期まで神に対する信頼と、人々に対する愛を貫きました。イエスの弟子たちは、このイエスの中に肉体の死を超えて神とともに永遠に生きる、本当のいのちを見いだしたのです。イエスが十字架の苦しみと死をとおして、憎しみと暴力と死に打ち勝ったという信仰をキリスト教は「復活」ということばで表します。

イエスが天に上げられた後、弟子たちはイエスのことを人々に語り、イエスを信じる人々の集いが生まれました。これが「教会」です。教会は、イエスを主·キリスト(救い主の称号)と信じ、イエスの跡を歩もうとする人々の共同体です。なお、人がキリスト信者になる儀式として、最初の時代から「洗礼」が行われてきました。

<*>



ミサ Mass

復活された主キリストはご自分の体である教会に現存し、今も救いの働きを続けておられます。キリストの恵みは特別のしるしによって現実のものとなりますが、この神の神秘的な働きをわたしたちは秘跡と呼んでいます。

その中でもとくに主日のミサは大切なものです。一つの地域の信者が目に見えるキリストの体としてともに集まり、神のことばを聴き、キリストの死と復活の神秘にあずかって、神の救いのわざを感謝し、そして主の食卓からキリストの体をいただいて、皆がキリストにおいて一つに結ばれます。わたしたちが実際に集まることが大切なのはこのためです。神への義務という次元もありますが、もっと身近に、信者同士がお互いを必要としており、ともに集まって励まし合い、支え合わなければなりません。こうして信仰の絆が確認され、連帯の意識が深められるなかで、ともにキリストの体に結ばれて、社会での生活に送り出されるのです。

<*>



洗礼 Baptism

洗礼によってわたしたちはキリストに結ばれて神の民に加わり、またすべての罪をゆるされ、水と聖霊によって新しく生まれます。こうしてわたしたちは神の子と呼ばれ、事実神の子となるのです(1ヨハネ3·1、ロマ8·15)。

<*>



子どもの教育 Child education

日本の社会にはキリスト教の文化的な環境が十分に整っていません。ですから、子どもがキリスト者として成長するためには、親自身が喜びをもって信仰に生きていること、教会共同体への参加が大切です。
ミサに参加し、教会学校に通い、家庭でともに祈ることがキリスト教的な環境と信仰教育を与えていくことの基本となります。

<*>



家庭での祈り Prayer at home

家庭での祈りも大切です。幼児のときから、寝る前の祈りや食卓での祈りを大切にしてください。いつもわたしたちの側にイエスがおられることを思い起こしてください。

<*>



結婚 Marriage

結婚は自由意思による男女の合意と誓約によって成り立ち、愛と忠実に根ざした不解消の絆で、神が結んでくださる厳粛なものです。結婚ほ神聖であり、その生活は子どもの誕生と育成の場として、社会の中で独自の使命を持っています。結婚式は単なる装飾や形式ではなく、神と人びとの前で2人の決意を表明し、お互いに絆を結び、恵みと祝福を求める祈りです。

<*>



堅信 Firmness

堅信によってわたしたちは父のたまものである聖霊をのしるしを受け、主にいっそう似る者となり、聖霊に満たされます。こうしてわたしたちは洗礼のとき宣言した信仰に生き、世にあってことばと行いでキリストのあかしとなり、キリストの体の完成のために働きます。

<*>



死の準備 Preparation for death

病気や事故などで死の危険が迫っているときには所属している教会、もしくは近くの教会の司祭に連絡してください。ご聖体、病者の塗油、ゆるしの秘跡、相談などを依頼できます。

<*>



十字架

Orthodox Hymn (Troparion) of Holy Cross

主や、爾の民を救い、爾の業に福を降し、吾が國に幸いを與へ、爾の十字架にて爾の住所を守り給え。

<*>







なぜ一部の人にだけ真理が啓示されるのでしょうか

+セラフィム·ローズ(1934-1982、アメリカの修道司祭)

Why is the truth revealed only to some people?

Fr. Seraphim Rose, USA (+1982)

なぜ一部の人にだけ真理が啓示されるのでしょうか。神からの啓示を受け入れるための特別な器官があるからでしょうか。

実はそうなのですが、普段は開かないようになっています。

その神からの知恵を受け取れる器官の名は、「愛に満ちた心」です。

+セラフィム·ローズ(1934-1982、アメリカの修道司祭)

https://twitter.com/Nicholas199903

<>

正教会とは

What is the Orthodox Church?

 まず初めにお断りしておかなければならないことは、ここにこれから書いてあることは、あくまで正教会についてのほんのわずかな概論である、ということです。正教の奥深さについての「ご招待」であって、学問的な「解説」ではありません。より詳しく正教について知りたい方は、ぜひお近くの正教会を探してそちらを実際に訪ねてみてください。

 およそ2000年前、一人の男の子がユダヤの地、ベツレヘムという小さな町で生まれました。彼はイイスス(イエス)と名づけられます。イイススは神の国の到来を人々に教え、多くの病人を癒し、様々な奇跡を行いました。しかし彼の活動に当時のユダヤ教の指導者達は危機感を覚え、イイススは十字架に磔にされ殺されてしまいました。しかし、イイススは三日目に墓からよみがえり、彼の弟子たちのもとに現れました。そして40日を彼らとともに過ごしたのち、イイススは天に上がっていきました。

 このイイススを「人となった神の子」と信じ、彼こそが救世主「ハリストス(キリスト)」であると救いの希望を持つのがキリスト教です。その中でも私たち正教会はイイススの直弟子である使徒以来、イイススと使徒たちの伝統を正しく守り伝えていると確信している教会です。

 キリスト教は、イイススの昇天の直後から、使徒たちによって世界中に宣教されました。紀元1世紀の世界にあって、西はスペインから東はインドに至るまでハリストスの教えは伝えられたのです。キリスト教の最初の三世紀は帝国による迫害の時代でした。多くのキリスト者がその信仰を守るために致命(殉教)し、それによって教会はますます強められていきました。やがてローマ帝国もキリスト教の存在を認め、後にはキリスト教がローマの国教となったのです。

 しかし不幸なことですが、キリスト教は次第にギリシャ語を話すローマ帝国東方の教会と、ラテン語を話す西方の教会に分裂していきました。これにはいくつもの理由が複雑に絡み合っており、簡単に説明することは困難です。西方教会は「聖神(聖霊)」に関して、独自の理解を教義に盛り込みました(フィリオクェ論争)。さらに教会の権力をローマ総主教、すなわち教皇に集約することで強力な教会組織を作り上げ、今日「ローマカトリック」と呼ばれる教会が誕生しました。一方で従来の教義を変えることなく守り、教皇権が東方に及ぶことを否定した教会は、「正教会」と呼ばれて今日に至ります。(ただし、これは西方教会離脱の全体像ではありませんし、教会の東西分裂があるとき突然、決定的な事件によって起こったわけではないことに留意せねばなりません)

 教会から西方の領域が分断されてしまったことは不幸な歴史ですが、その時代に新しく正教の光が届いた地域もあります。それは今日ロシアやウクライナと呼ばれるスラブ人たちの住む地域でした。「ルーシ」と呼ばれる人々が正教会を受容したのは、今からおよそ1000年ほど前になります。それ以来ルーシの地、すなわちロシアは正教会の一大拠点となり、そこでは正教の精神性や文化が大きく花開きました。

 正教会は自らをニケア·コンスタンティノープル信経(信条)で告白するところの「一つの聖なる公なる使徒の教会」である、と自認しています。「公」である、ということは「正教会がただの民族宗教、国家の教会なのではなく、その正しさは世界中に普遍的に通用し、宣教されるべき教会である」ということを意味しています。今日「正教会」というとロシアやギリシャ、あるいはルーマニアやブルガリアなどの東欧諸国のイメージが強いですけれども、本来はそこに止まらず、世界中に遍くあるべき「たった一つの聖なる教会」なのです。

 また、私たちは教会を教会たらしめている聖なる伝統は、イイススから使徒たちへ、使徒たちからその後継者である主教たちへ受け継がれ、今日の正教の教会の中に息づいていると信じています。聖なる伝統とは、聖書、公会議の決定事項、教義、奉神礼(礼拝)の方法、聖職者の位階、聖堂、イコン、などのものです。正教会は信仰上の父祖から受け継いだものを、そのまま間違いなく次の世代に渡す、という形で伝統を守り、そこには聖神(聖霊)の働きがある、と信じています。

 「正教」はギリシャ語で「オルトドクサ」、英語では「オーソドックス(Orthodox)」と呼ばれています。これは「正しい(オルソス)」「祈り(ドクサ)」を意味する言葉であり、正教会の特徴をはっきりと表しています。私たちは祈りをとても大切にします。神と人との愛ある交わりは祈りの中にこそあると信じているからです。私たちは神への愛、神への感謝、神への願いを祈りの形で表現します。正教会は使徒の時代以来、この祈りの本質を連綿と引き継いできました。だからこそ私たちは「オーソドックス」を名乗るのです。

ソース:

https://www.ocjmorioka.com

https://www.ocjmorioka.com/orthodox

盛岡ハリストス正教会

Morioka Orthodox Church

<>

正教会は何を信じているか 

What Orthodox Church believe?

 正教会に限らず、キリスト教はこの世界は神によって創造された、と信じています。では神はなぜ世界を造ったのか。私たちは神を愛の方である、と信じています。ですから神はこの世界を「神が愛するもの」として創造された、ということになります。神は見える世界(物質的世界)、見えない世界(非物質的世界)を創造し、そこを造物で満たしました。それは「はなはだ善い」ものであると神が言った、と聖書は伝えています。世界は大変に素晴らしいもので、その素晴らしい世界の代表として、世界を愛し、よく守り、神に感謝を捧げ、神との愛の交わりのうちに生きる存在として人間が造られた、と正教会は教えています。神に「よく似たもの(神の像)」として神の持つ良き能力(愛、創造性、知恵、自由な意志など)を与えられた人間は、その能力を用いて神と世界の仲立ちとなることを期待されていました。さらに、人間には「神との交わりの中にどこまでも神に似ていくことができる可能性(神の肖)」まで与えられていました。

 しかし人間はその役割に失敗してしまいます。アダムとエヴァは蛇の誘惑に負け「善悪の知識の実」を食べてしまいます。その時に蛇は「これを食べると神のようになれる」と言って彼らをそそのかしました。それは、人間が神に代わってこの世界の支配者となればよい、という誘惑に他なりません。神とともにあってこの世界を生かしていくはずの人間が、神に背を向けこの世界の暴君として振舞う道を選んだのです。人間の傲慢さは次々と新しい罪を生み出し、この「はなはだ善い」はずの世界を汚染していきます。そして、神から離れた人間は、神の永遠性という恵みを失ってしまったので「塵に帰るもの」すなわち死ぬものとなった、と教会は教えます。

 その人間と世界を罪と死から救うためにこの世に来られたのが「神、子」、あるいは「神の言」と呼ばれる方でした。このお方は「神、父」とまったく同じように「神である」と教会は信仰を告白します。全ての時間の外側で、つまり永遠において「父から生まれた神の子」です。このお方が処女であるマリヤを通してこの世界に入り、イイスス(イエス)と名付けられました。イイススは完全な神でありながら、完全な人間です。私たちが人間であるのとまったく同じように、一人の人間としてこの世にお生まれになったのです。イイススが「どのように」「どのような様式で」完全な神であって完全な人であるのかについて、正教会は多くを語りません。人間の論理的知性では分からないからです。神の神秘の領域のことには沈黙を守るという、知的な事柄に対しての姿勢が正教会にはあります。私たち正教はイイススの神性と人間性については「この二つの本性が混合されることなく、変化することなく、分割されることなく、離されることがない」ということ、そしてイイススは完全に一つのお方(位格)であることを確認するのみです(カルケドン第四全地公会)。

 むしろ、神が人となったことの意味でもっと重要なのは、「神が人となることで人間性全体が浄められた」ということです。このことは「神が人となったのは、人が神となるためである」という聖大アタナシオスの言葉で私たちに伝えられています。神ご自身が人間となって、人間の失敗を再びやり直してくださったので、人間本性全体がその本来あるべき姿を回復できるようになりました。正教会には「テオシス(神成、神化)」という考え方がありますが、これは私たち人間が神との交わりの中に、限りなく神に似たものとなっていくということです。私たちは神の似姿として創造され、さらに神に似ていく可能性を与えられていました。私たちは罪によってこれらを大きく傷つけてしまいましたが、イイスス·ハリストスによって浄められた人間性は再びこの可能性を取り戻しました。聖使徒パウェルはこの「神化」についてこのような言葉で表現しています。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。(第二コリント3:18)」。あるいは偉大な聖師父であるマキシモスは「神化」を、鉄(人間性)が炎(神のエネルギー)に熱せられ、炎の性質を持った鉄(神化された人間)になることに例えました。この「テオシス」は正教徒の究極的な目標である、ということができるでしょう。

 また、私たちは「神、聖神(聖霊)」を信じています。聖神は私たちに神の子ハリストスを指し示し、私たちをハリストスとの合一に導きます。また聖神は「神、父から出る」お方であり、「父」と「子」とともに「至聖三者」、三位一体の神であると正教会は信仰を告白します。三位一体とは、神とは「父」と「子」と「聖神」という三者であるが、しかし一つである、ということです。古来からこの私たちが理論的には理解できない命題について説明が幾たびも試みられてきましたが、それはいずれも神の神秘を表現することはできませんでした。これは私たちが理論的に証明することではなく、神からの啓示によって直接「知る」ことです。私たちにとって重要なことは、三位一体の理論的様式ではなく、至聖三者が完全に一致した愛の中にあるお方である、ということです。なぜならば、神の像として造られた私たちには神の性質が反映されているので、神が「完全な愛」のお方であるならば、人間もまた愛の存在であるはずだからです。人が神を愛するものであること、人が人を愛するものであることは、私たちの原型である神に由来することであり、私たち人間にとって本質的な事柄である、と正教会は考えます。

 私たち正教会はイイスス·ハリストスの復活について「肉体をもっての復活」を信じています。決して霊だけが人々に現れた、とか、イイススの死が人々に強烈なインスピレーションを与え「復活体験」を感じさせた、という解釈には与しません。私たちが信じるハリストスの復活は、本当の意味での復活、一度間違いなく死にそして復活したイイススが、完全な霊と肉体をもって使徒たちや人々に現れ、実際に食べたり、飲んだり、触れたりした、という復活です。それがいくら私たちの知る「常識」とかけ離れていたとしても、ここに妥協はあり得ません。私たちは使徒たちが目撃し、そして伝えてきたことを信じています。

 ハリストスは人間すべての罪の為に十字架にかけられ死んだのみならず、自らの死を以て死に勝利し、私たち人間に永遠の生命を与えました。ハリストスが人間性全体をもって復活したのだから、ハリストスの人間性に連なる私たち人間もまた復活することができるようになりました。もちろんこの世において私たちにはいまだ死が訪れます。私たちの肉体は喪われてしまうように見えます。しかし「復活の日」、私たちは復活し、栄光に輝く新しい肉体を得て永遠の生命に入れらる、と教会は教えています。これが正教会の持つ「希望」なのです。

 そしてイイスス·ハリストスは私たちが主の復活に与り、ともに永遠のものとなるために一つの道筋を用意してくださいました。それは「洗礼を受け、主の体と血である聖体を領食する」という方法です。これは私たちを罪と死から救い出し、永遠の命を与える、新しい神と人との約束です。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。(ヨハネ6:54)」という主の言葉を信じているからです。聖体を受けることで私たちはハリストスの体と一体になり、教会は「ハリストスを頭とした肢体」となります。聖体を受ける者はハリストスに連なり、ハリストスとともにあって永遠の生命を受けます。ですから正教徒は毎週日曜日に、聖体礼儀を行い、神に感謝を捧げ、その恵みの賜物を受け取るために教会に集うのです。

ソース:

https://www.ocjmorioka.com

https://www.ocjmorioka.com/orthodox

盛岡ハリストス正教会

Morioka Orthodox Church

<>



******



ORTHODOXY:



神様の平安が皆さんとともにありますように

May God's peace be with you

<>

神に感謝

Thanks to God


<>

主のご復活、おめでとうございます!

Congratulations on the resurrection of the Lord!

<>



​盛岡管轄区の教会

https://www.ocjmorioka.com/churchs

Orthodox Christian churches in Japan

<>

実に復活!

おめでとうございます!

<>


教会へのご招待

Invitation to Church

​ ここまで、長く書きましたが、正教会についてこの場ですべてを語り、解き明かすことはできません。また、「読む」ということだけで正教会の真の理解に至ることは絶対に不可能です。また私たち正教徒自身も、正教全体を理解し、真理を完全に知っているわけではありません。それほどまでに正教会は奥深く、神秘の側面を多く残しています。ですから、もし正教に関心がある、キリスト教に興味がある、という方はぜひ実際に教会に足を運んでみてください。もし可能であるならば、それは私たちが祈祷を行っている時がなお良いでしょう。正教会の神髄は奉神礼(礼拝)を行っている時にこそあります。そこで何が起こっているのか、どのように祈りが行われているのか、ぜひ五感をもって確かめてください。本を読むだけの勉強では得られない体験がそこにはあるはずだからです。

ソース:
https://www.ocjmorioka.com

https://www.ocjmorioka.com/orthodox

盛岡ハリストス正教会

Morioka Orthodox Church


<>

あなたは死を超えた愛の力で

You are the power of love beyond death

イエス·キリスト
あなたは死を超えた愛の力で
わたしたちに本当の自由を与えて下さいました
この一年、この心にみなぎる愛と福音を
どんな困難も恐れずに
生きていくことができますように

主のご復活おめでとうございます!


<>

正教会の信徒は、教会や家庭祭壇のイコンの前にろうそくを灯します

Orthodox believers light candles in front of icons in churches and home altars

正教会の信徒は、教会や家庭祭壇のイコンの前にろうそくを灯します。
これにはいくつかの理由があります。
まず、ろうそくの光は、私たちの霊を照らす「世の光(ヨハネ8:12)」であるハリストス(キリスト)を象徴していて、その光=イイスス(イエス)を信仰していることを表すためです。

また、ろうそくの光を見て「爾等の光は人々の前に照るべし。彼等が爾等の善き行いを見て、天に在す爾等の父を讃栄せんためなり(マタイ5:16)」というイイススの言葉を思い出すためでもあります。

聖人のイコンに限定すると、そのイコンに描かれた聖人が受けた神からの「光」、そしてその聖人の尊敬すべき聖なる生涯から発される「光」を記憶し、彼等の信仰や生き方を学ぶためろうそくを灯す、という意味もあります。

また、私たち人のためにご自身を捧げたハリストスの受難や聖人たちの犠牲に感謝し、それに対する敬意を示すためにろうそくを捧げるという意味もあります。

最後に、ろうそくは身を減らして人を、そしてイコンを照らしますが、ろうそくを灯す私たちも、そのような自分自身だけでなく、人のために、世のために、そして神のために尽くす生き方ができることを願う、という意味もあります。

https://twitter.com/Nicholas199903




<> 

山下りん

Rin Yamashita, Japan (1857-1939)

山下 りん(山下 里舞、やました りん、安政4年5月25日(1857年6月16日) – 1939年(昭和14年)1月26日)は、日本の画家である。日本人最初のイコン画家として知られる。正教徒で聖名はイリナ。そのためしばしばイリナ山下りんとも言及される。

略歴

常陸国笠間藩(茨城県笠間市)の出身。1873年(明治6年)に江戸に出て豊原国周という浮世絵師に学び、後に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年(明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ·フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。工部美術学校は1880年(明治13年)に退学する。

同年、山室の代役で教会より派遣され聖像画家として修養すべく帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学した。ビザンチン式の聖像の技法を山下自身は好まず、ロシア滞在中に記した日記に「イコンはおばけ絵」「イタリヤ画(ラファエロが描いたような絵)が画きたい」などの発言を残している。滞在中は女子修道院でイコン製作技術を学び、本当は5年滞在のところを丸2年滞在して1883年(明治16年)に帰国した。

帰国後は東京神田駿河台にあった日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、外界との接触を絶ちイコン製作に没頭する。1891年(明治24年)に竣工したニコライ堂にも後にイコンを描いた(関東大震災で焼失)。主に関東地方や東北·北海道を中心に300点あまりの聖像を残した。作風には留学当時ロシアで支持されていた西欧カトリックの宗教画の影響が強く、模写したロシア·イコンを通じて山下りんがギュスターヴ·ドレの聖画集を間接的に模写していたことが指摘されている。

イリナ山下のイコンは全て模写であり無署名である。この点において、正教のイコンの原則を忠実に守っている。ロシア留学からの帰国後は、留学経験を誇る風もなく、機関紙である『正教時報』に留学体験を書くこともなく、肖像写真にも土産にもらったワンピースを着ることもなく粗末な木綿の着物で写り、教会内で目立った自己主張もせず、ただただイコン制作のみに努めた。当時の女子神学生の証言として、周囲とは全く没交渉で、浴室で稀に会った程度であり、アトリエすらも見た者は居なかったというものがある。

ロシア革命後は正教も衰えたため、1918年(大正7年)、61歳で郷里の笠間に戻り、晩年は白内障のためもあって絵筆はとらなかったという。満81歳で没。墓所は笠間市の光照寺。

1901年(明治34年)44歳で制作、個人所有のイコン、ウラジーミルの聖母は2005年に『美の巨人たち』でとりあげられた。

留学先

りんの留学した修道院は、長らく名称、所在地が不明であったが、1979年、川又一英が、当時のレニングラード(サンクトペテルブルク)を訪問し、突き止めている。これは、市の中心から南へ5km、ザバルスカン大通り(現モスコフスキー通り)に面した、正式名称サンクトペテルブルク復活女子大聖堂、通称ノヴォデーヴィチ女子修道院である。エルミタージュ美術館へ行程8kmほどで、一時期、りんは馬車で通っていた。その後、ロシア革命、第二次大戦を経て荒廃していたが、ソ連崩壊後、徐々に再建されている。


<>

日本の正教会

Orthodox Church in Japan

 私たち日本の正教会はロシアから伝えられました。1861年、幕末の蝦夷地にニコライ·カサートキンという一人の若い修道司祭が上陸しました。彼はまだキリスト教が禁止されていた日本で、日本語や日本文化を学び、来るべき宣教開始の日を待ちました。やがて明治に時代が変わり、彼は日本での宣教活動を始めます。その時に最初の拠点となったのが、北海道函館の教会でした。今日、観光地としても親しまれている「函館ハリストス正教会」です。ニコライは宣教の中心は日本の首都であるべきであると考え、東京の神田駿河台の地に土地を購入し大聖堂を建立します。これが現在の「東京復活大聖堂」、通称「ニコライ堂」です。ニコライは精力的に日本全国を宣教して最盛期には3万人近い信徒が日本全国にいたと言われています。

 ここ盛岡の地にも明治初期に正教が伝えられ、最初は加賀野に聖堂が設けられました。最初の聖堂は武家屋敷を買い取ったものであったと言われています。1961年(昭和36年)に現在の高松に移転され、現在の聖堂が建設されました。高松の池のほとりに位置する丘の中腹に建つ聖堂は、下を走る国道4号線のバイパスからもよく見え、良い景観を作っています。また教会のある丘からは盛岡市を一望でき、天気のいい日には岩手山も正面に見えるという絶好のパノラマを備えています。

ソース:
https://www.ocjmorioka.com

https://www.ocjmorioka.com/orthodox

盛岡ハリストス正教会

Morioka Orthodox Church

<>



聖書はまるで、辛い時、苦悩の時、頭をそこに委ねる母の胸です

聖書はまるで、辛い時、苦悩の時、頭をそこに委ねる母の胸です。

+新致命者聖アレクサンドラ(ニコライ2世の皇后)

https://twitter.com/Nicholas199903

<>

福音を「書き」続けている

Continue to "write" the Gospel

「わたしたちは、このことの証人です」



聖書の信憑性を示すひとつの要素は

弟子たちが一貫して

自分たちのふがいなさしか書いていないことだ



もし弟子たちが後世の人々を騙そうとして

福音書を書き残したなら

自分達のいいところばかり書いていただろう



わたしたちも

福音を「書き」続けている

<>



奉神礼について

About Liturgy

奉神礼とは「礼拝」や「典礼」を表す正教会の言葉です。

正教徒にとって奉神礼こそが、キリスト教徒としての生活の中心であり​、もっとも重要なものです。

ソース:
https://www.ocjmorioka.com

https://www.ocjmorioka.com/liturgy

盛岡ハリストス正教会

Morioka Orthodox Church

<>



子どものように無邪気に喜ぶだろうか

Will you be innocently pleased like a child?

もしイエスがわたしの足を洗おうとしたら

どう感じるんだろう

子どものように無邪気に喜ぶだろうか

それとも

年を重ねるごとに複雑になってゆくこころの

ひだにたまる汚れに触れられるような

いたましさを感じるのだろうか



<>



聖体礼儀について

About the Divine Liturgy

 正教徒にとって、正教徒であることの意味のすべては、この聖体礼儀にあると言っても過言ではないでしょう。聖体礼儀とはイイスス·ハリストス(イエス·キリスト)の体と血となったパンとぶどう酒を領食する奉神礼であり、ローマカトリック教会の「ミサ」、プロテスタント教会の「聖餐式」に相当する祈祷です。私たちは日曜日ごとに教会に集い、祈り、感謝してパンとぶどう酒を神に捧げます。そのパンとぶどう酒は「聖体」すなわちハリストスの体と血となって私たちに与え返され、それを領食する私たちはすべての罪が許されて永遠の命に至ることができる、と私たち正教徒は信じています。この聖体を人々に分かち与えることこそが、教会の役割であり本質です。イイススは機密制定の晩餐(最後の晩餐)の席において、使徒たちにパンを割きぶどう酒を与え、それが自分の体血であること、それが人々の罪の赦しとなると宣言し、そしてこれからも同じように行うように命じました(ルカ22:17-20、コリント11:23:25)。聖体は私たちを生かし、神の国へと導くイイスス·ハリストスそのものです。だからこそ私たちは2000年にわたって聖体礼儀を守り続けてきたのです。

わたしは天から下ってきた生きたパンである。

それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。

わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。

イオアン(ヨハネ)6:51

ソース:

https://www.ocjmorioka.com

https://www.ocjmorioka.com/liturgy

盛岡ハリストス正教会

Morioka Orthodox Church

<>

教会の中には何かが育ちつつある

Something is growing in the Church

教会の中には何かが育ちつつある

この困難には意味があると思わせてくれる

励まされるようなインタビューでした



より主体的な信仰と行動的な参加への成長

ゆらぐいまをあたりまえの日常として

ゆるぎないものに基づいていく

<>



洗礼について

About Baptism

 聖体礼儀を行い、聖体をすべての人に与えることが教会の役割である、とはいえすべての人が聖体をいただけるわけではありません。聖体を受けるためには正教の洗礼を受けた人間であることが求められます。信仰の無い者、信仰を異にする者が聖体を受けても利益にならず、かえって害になってしまうと教会は考えるからです。聖使徒パウェル(パウロ)はコリント人への手紙の中で「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである(11:29)」と語っています。聖体を受けて神の国と永遠の生命を得ることを求める者は誰でもまず洗礼を受けてそれに備えなければなりません。

​ 洗礼とは至聖三者、すなわち三位一体の神である「父と子と聖神の名」において三度水に沈み(日本では頭から水をかける方法が多いですが、これも有効な洗礼です)、主の十字架上の死と三日目の復活にあずかる奉神礼です。洗礼は人生において、たった一度だけ行われます。洗礼の水に沈むことによって、私たちは罪と死に支配された歪んだ人間性とともに死に、ハリストスが復活したように、全く新しいものとして生まれ変わります。私たちはそのことを「ハリストスを着る」という言葉で表現します。

 洗礼が終わると直ちに聖神(聖霊)の印である聖膏(特別な香油)が体の各所に塗られ、聖神の賜物が神から与えられます。洗礼を受け聖神の印をつけられたものは、聖神によって生かされる「神の宮」となります。

 福音を伝え、洗礼を施すこともまた主イイスス·ハリストスの命令です(マタ28:19)。一人でも多くの人が神の国へ至る道を歩めるようにハリストスを述べ伝えること、これもまた教会の本質的な役割です。洗礼を受けるのに、人種、性別、身分、年齢、あらゆる障壁はありません。ただ切に神と神の救いを求める心がある限りすべての人に洗礼は開かれています。​正教徒として生きることに興味や関心がある方は、ぜひ教会の門を叩いてみてください。

よくよくあなたに言っておく。

だれでも、水と神(しん·霊)とから生れなければ、

神の国に入ることはできない。

イオアン(ヨハネ)3:5

ソース:
https://www.ocjmorioka.com

https://www.ocjmorioka.com/liturgy

盛岡ハリストス正教会

Morioka Orthodox Church

<>

たましいを燃やすあの愛を

道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか



復活したイエス

復活祭の大騒ぎのあとで

簡単に忘れてしまうわたしたちの心に

語って下さい

心でしか理解できないあのできごとを

たましいを燃やすあの愛を



<>

4月26日はロシア正教会で「チェルノブイリの救い主」を記念します

April 26th will commemorate the "Savior of Chernobyl" at the Russian Orthodox Church
東方教会では社会問題のためにも記念を定め、イコンを描くそうです。

4月26日はロシア正教会で「チェルノブイリの救い主」を記念します。

放射能で病を負いおびえた子どもを集めるキリストは、人類を愛のうちに集めようとする神の思い、そして人間の被造物への責任を思いかえすようにうながしています

https://twitter.com/Nicholas199903

<>

神よ、私は確信しています

God, I'm sure

神よ、私は確信しています

あなたのいつくしみにより頼むものには

なにも欠けるものはないと 

すべての思い煩いは

あなたが引き受けて下さいますから 

<>

聖枝祭、おめでとうございます!

Happy Palm Sunday!



<>

今日は聖大火曜日

Holy Tuesday

今日は聖大火曜日、読まれる福音の箇所はマトフェイ(マタイ)24:36-26:2です。

ここでイイススは、世の終わりがいつなのかを計らないように、その時まで覚醒しているように呼びかけ、「忠実な僕と悪い僕」、「十人の乙女」の例え話を語ります。

花婿が来るその時までは、油を溜めておきたいものです。

* * *

視よ、新郎は夜半に来る。僕の醒むるを見ば、僕は福なり。その倦むを見ば、當らざる者なり。我が霊よ、慎みて眠り惰るなかれ、恐らくは死にわたされて、国の外に閉されん。疾く興きて呼べ、聖、聖、聖なるかな神よ、生神女によりて我らを憐れみたまえ。

今日歌われるトロパリです

https://twitter.com/Nicholas199903

<>

今日は聖大水曜日

Holy Wednesday

今日は聖大水曜日、朗読される福音の箇所はマトフェイ(マタイ)26:6-16です。

ここでイイススは、香油を注いだ女性を褒め、弟子たちに自分の死と福音宣教を予言します。

そして、弟子の一人であるイウダは、祭司長たちに銀貨30枚でイイススを渡す約束をしていたという話で、朗読箇所は終わります。

https://twitter.com/Nicholas199903

<>

聖木曜日

Great and Holy Thursday
今日は聖大木曜日、機密の晩餐(最後の晩餐)やイイススが弟子たちの足を洗った出来事が記憶される日です。

また、今日の夕方に捧げられる聖大金曜日の早課(早い朝の祈り)では、『十二福音』と呼ばれる祈りがあります。福音書の受難の箇所を12に分け、早課の祈祷文と合わせて朗読する祈りです。

十二福音は主の告別説教(イオアン/ヨハネ13:31)から始まります。

1から12までの福音の箇所が読まれるたびに鐘を鳴らし、「主よ、光栄は爾の苦しみに帰す」と歌います。

この祈り、すごく好きなのですが、今年は参祷制限が厳しいため、家で韓国正教会の配信を見て、お祈りを捧げたいと思います。

* * *

今日は聖大月曜日、読まれる福音の箇所はマトフェイ(マタイ)24:3-35です。

世の終末が来る前、どのような事が起きるかについてのイイススの予言が書かれている箇所ですね。

終末の時がいつになるのかは分かりませんが、その時になって「こうすれば良かった」と後悔しないように生きたいと思います。

https://twitter.com/Nicholas199903

<>

今日は聖大金曜日

Good Friday

今日は聖大金曜日。

イウデヤを解放する王として、民衆の歓迎を受けながらエルサレムに入った、ナザレト出身のイイススという男は、「これを去れ、これを去れ、十字架に釘せよ!」という民衆たちの罵倒が鳴り響く中、十字架にかけられ、孤独の中で息耐えました。

主よ、光栄は爾の苦しみに帰す。

https://twitter.com/Nicholas199903

<>

今日は聖大土曜日

Holy Saturday

今日は聖大土曜日。

イイススは眠られ、墓に葬られました。

私たちは主の墓の前に立ち、嘆き、悲しみます。

しかし、ただ悲しむだけではありません。

主ご自身が予言したように、死より復活し、また私たちとともにいてくださるという希望を抱き、喜びの時まで、主の苦しみに感謝し、悲しむのです。

https://twitter.com/Nicholas199903

<>

イエスが「マリア」と言われると

When Jesus says "Maria"
イエスが「マリア」と言われると、

彼女は振り向いてヘブライ語で

「ラボニ」と言った



だいせつなときにイエスに呼ばれたら

その声が主のものだと聞き分けられるほど

わたしは、わたしの日々の生活は

彼の声に慣れ親しんでいるだろうか



<>

イコン「悪しき心の浄化」

Icon of Most Holy Virgin Mary 

"Purification of the evil heart"

イコン「悪しき心の浄化」

正教会のイコン、特に生神女マリア様のイコンには、あだ名が付くことが多く、各イコンごとに興味深い伝承や歴史的事件·人物と関わったエピソードがあって、調べていくとかなり面白いです。

https://twitter.com/Nicholas199903



<>

ユダはパン切れを受け取ると

When Judas receives a piece of bread

ユダはパン切れを受け取ると

すぐ出て行った

夜であった



闇の中に消えていったユダをまなざしで追う

イエスの思いがこころに刺さる



いくどとなく

こうして闇にむかって彷徨ったとき

遠くにその瞳があったのだ



<>



死者の祈り(パニヒダ)について

About the prayer of the dead

​ 私たち正教徒はしばしば死者のための祈りを行います。すでに永眠してしまった私たちの友や家族が神の国に入れられるように祈るのです。正教会は人間の救いについて、自分の努力や功徳の積み重ねの結果で神の国に入ることができる、とは考えません。人間は誰もが罪を犯します。まったく潔白で神の国にふさわしい人間は、人となった神、イイスス·ハリストス以外には存在しないのです。ですから、もし私たちが純粋に善行と悪行をもって審判されるのであれば、すべての人が有罪となり地獄へ行くことになってしまうでしょう。しかし神は人間を功罪で審判する方ではありません。もちろんすべての人間の功罪をご存じです。しかし神にとって何より大切なのは、神が人を愛しているということです。神は人を愛しているので、人となり、私たちのために神の国、永遠の生命に至る道筋を示してくださいました。それは神の愛の呼びかけに応え、洗礼を受け、聖体をいただくという道です。人間に求められているのは「神の愛、神の招きに応えること」だけなのです。

 しかしこれは生きている人間にしかできないことでもあります。死んでしまった人は自らの口で祈ることも、聖体を受けることもできません。だから私たちは死者のために祈ります。もはや言葉も息もない、愛する友や家族に代わって神に祈ります。おそらく友や家族たちにも罪があるでしょう。しかしそれに目をつむって、どうか神の国に入れてあげてほしい。これが私たちにとっての死者のための祈りです。私たちは神が人を愛しているのを知っているので、この祈りが聞き届けられることも知っています。そして最後の審判の日、私たちはともに復活し、全く新しいものとして再会の喜びを分かち合い、永遠の幸福に入れられる、ということに希望を置いているのです。

もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。

先のものが、すでに過ぎ去ったからである

イオアン(ヨハネ)の黙示録21:4

ソース:
https://www.ocjmorioka.com

https://www.ocjmorioka.com/liturgy

盛岡ハリストス正教会

Morioka Orthodox Church

<>

​盛岡管轄区の教会

盛岡ハリストス正教会

​聖十字架挙栄聖堂

名勝「高松の池」近くの丘に建つ教会。鐘楼とドームは下を走る国道4号線からもよく見える。イコノスタスのイコンは明治の日本人イコン画家イリナ山下りんの手によるもの。

住所 020-0114岩手県盛岡市高松1丁目2-14

​電話 019-663-1218

​盛岡管轄区の教会:

https://www.ocjmorioka.com/churchs





<>



​盛岡管轄区の教会

北鹿ハリストス正教会​

​曲田生神女福音会堂

秋田県内唯一の正教会の会堂。明治25年に建設された木造会堂だが、今でも現役で祈祷が行われている。木材を湾曲させて作った中央のドームが大変に美しい。イリナ山下りんのイコンも多数用いられている。秋田県と大館市の重要文化財。

住所 018-5603秋田県大館市曲田80-1​

web http://www.wp-honest.com/magata/

​盛岡管轄区の教会:

https://www.ocjmorioka.com/churchs



<>



​盛岡管轄区の教会

山田ハリストス正教会​

主の復活会堂

三陸海岸の漁港の町、山田に建つ教会。旧会堂は東日本大震災後の津波、及び大火災により焼失してしまった。しかし信徒達の懸命な努力により、2018年新会堂を新築、成聖。主の復活を記憶し「復活会堂」と名付けられた。

住所 028-1341岩手県下閉伊郡山田町八幡町4-28

​盛岡管轄区の教会:

https://www.ocjmorioka.com/churchs



<>



​盛岡管轄区の教会

遠野ハリストス正教会​

​聖太祖アウラアム·サッラ会堂

​遠野の農村地帯に建つ教会。畑の中のなだらかな丘の上に位置しており、田園風景によく映えている。もともと遠野の地には会堂は無かったのだが、地元信徒の努力により2013年に建立成聖となった。遠野地区の最初の正教信者の聖名がアウラアムとサッラであったことにちなみ、聖なる神の祖先アウラアムとサッラの名を会堂名とした。

住所 028-0555岩手県遠野市土淵町土淵10地割31-1

​盛岡管轄区の教会:

https://www.ocjmorioka.com/churchs

<>




​盛岡管轄区の教会

岩谷堂ハリストス正教会​

​主の降誕会堂

岩手県の南部に位置する奥州市、江刺地区に建つ教会。

​会堂内のイコノスタスは、かつて中国遼東半島の旅順市にあった聖堂から運ばれてきたと伝えられているが、真相は不明。

住所 023-1121岩手県奥州市江刺区男石1-4-3

​盛岡管轄区の教会:

https://www.ocjmorioka.com/churchs



<>

かれに続け

Follow Him

わたしたちへの愛でこころが壊れそうになりながら

小ろばにのったこの救い主が

わたしたちの神



かれに続け

<>

感謝致します

Thank You

何だか、涙が出そうになりました。どうもありがとうございます。感謝致します。

<> 



アーメン!

Amen!


<>




Total Pageviews

Welcome...! - https://gkiouzelisabeltasos.blogspot.com